01
大陸暦1526年――任務
低い咆哮と共に、クマにも似た大きな黒き獣は緑の大地に伏した。
死骸と化した黒き獣を見て、全く同型である三体の黒き獣たちが、殺気立つように次々に吠え始める。それは今まさに黒き獣たちの仲間を
立てば四メートル近くにもなるであろう黒き獣を包囲しているのは、屈強な軍人でもなければ熟練の冒険者でもない。十代半ばの少年少女たちだ。
その誰もが一様に、真新しい青が基調の制服を身にまとい、これまた見るからに使い込まれていない剣を構えている。そして青い
それは少年少女たちが、
若き騎士たちは、黒き獣と一定の距離を保ちながら好機を
その顔は、誰もが真剣そのものだ。
それもそのはず、目の前にいる黒き獣が持つ大きな四本爪は、人間の肉を軽々と引き裂く程度の威力がある。そのことを、若き騎士たちは学び知っている。
たとえその爪を受けてしまったとしても、怪我を治せる治療士が後方に待機してはいるが、それでも誰だってその一撃をもらいたくはない。怪我とは負うときはもちろんのこと、治療魔法で治す際にも痛みを伴うものなのだ。それは訓練で生傷が絶えなかった若き騎士たちも、身に染みるぐらいに体験している。
黒き獣は低い
黒き獣が一歩踏み出せば、若き騎士たちも一歩下がり、黒き獣が一歩下がれば、若き騎士たちも一歩踏み出す。そんな駆け引きが何度か繰り返されたあと、この硬直状態に痺れを切らしたのか、黒き獣の三体のうちの一体が咆哮をあげて駆けだした。
「アクセラ!」
若き騎士の誰かが緊迫した声をあげた。
黒き獣は一直線に茶髪の少年騎士――アクセラに向かっている。
アクセラは向かってくる黒き獣に『かかったな』とでも言うように、にっ、と白い歯を見せて笑うと、後方へと飛んだ。鋭い四本爪が、彼の目の前を上から下へと通り過ぎる。そして、その勢いのまま爪は地面へと突き刺さった。
その大きな黒い手にすかさず、アクセラが剣を突き立てる。
「今だ! エルデーン!」
言うが早いか、アクセラの横を少女騎士が通り過ぎた。
エルデーンと呼ばれた彼女は、金色の長い髪をなびかせながら素早く黒き獣の懐に潜り込むと、剣を左から右へと
「よっしゃ!」
アクセラが喜びに
「ごめん! そっち行った!」
と彼の右方向から声があがった。
アクセラがそちらへ顔を向けると、黒き獣の二体のうちの一体が、対峙していた赤毛の少女騎士を振り切って四つん這いで駆けてきている。その目標は、今まさに仲間を
黒き獣の接近には当然、エルデーンも気づいていた。だが、そばには地に伏した四メートルもの黒き獣の死骸があり、後退することができない。横に逃げようにも、向かってくる黒き獣との距離が近すぎる。アクセラも加勢しようと動き出したが、黒き獣の死骸が邪魔で間に合わない。
「エルデーン!」
アクセラに呼ばれた彼女は、なぜか敵を目前にして剣を鞘に収めている。
黒き獣はそんなエルデーンの前で立ち上がると、四本爪で彼女の頭を刈り取るように左腕を横に
その瞬間、エルデーンは身を低くすると、右斜め前に飛び込むように前転した。それからすぐに立ち上がると、その勢いで半回転しながら剣を抜き、黒き獣の脇腹を斬りつける。黒き獣は
踏み込みが甘かったことに気づいていたエルデーンは即座に黒き獣の背後へと移動する。黒き獣は彼女を追うように後ろに向き直ると、右腕を振り上げた。それを彼女は逃げるでもなく、応戦するでもなく、肩で息をしながら見上げている。その表情には焦りも恐れもない。それどころか小さく微笑みさえも浮かべている。
そのことに苛立つかのように黒き獣は大きく
エルデーンが黒き獣の左側を見る。そこには黒い粒子と、四本爪がついたままの腕が宙に舞っている。そして、そのすぐそばには空中で剣を振り下ろしているアクセラの姿――。振り下ろされる前に、彼が腕を切り落としたのだ。
アクセラは黒き獣の死骸に着地して体勢を崩しながら叫んだ。
「フレイヤ!」
「分かってる」
呼びかけにすぐさまそう答えたのは、赤毛の少女騎士――フレイヤだ。
エルデーンが黒き獣を引きつけている間に背後に回り込んでいた彼女は、手前の死骸を飛び越えるように跳躍すると、黒き獣のうなじへと剣を突き立てた。そして剣を残したまま黒き獣の背中を蹴って後転する。その際、左下に視線を向けた。そこには小柄な金髪の少年騎士がいる。
「オクト」
「う、うん」
金髪の少年騎士――オクトは自身なさげに頷くと、首筋の剣に気を取られて隙だらけになっている黒き獣の左脇を剣で
それがトドメとなり、ついに黒き獣は苦しげな
「おおー」
黒き獣と若き騎士たちが交戦する様子を、少し離れた場所で眺めている二人の人間がいた。
一人は
年齢は二十代前半。彼は左手を腰に当て、右手で額前に日差しを作り、見るからに軽薄そうな笑みを浮かべている。今、緊張感の欠片もない声を出したのも彼だ。
そして、その隣には腕を組み、男性とは対照的に真剣な表情を浮かべている女性。
男性よりも見事な
年齢は十代後半。
「今のはいい連携でしたねーイルスミル隊長」
金髪碧眼の男性――
視線を向けられた女性――
今日は今年、第五騎士隊に入隊した新人にとっては初めての黒き獣――
それは人間のみならず野生動物や家畜など命あるものならなんでも襲い、
今日、討伐対象のクマのような見た目をしている
分類はC。通称は四本爪。四段階評価である
評価だけで判断するならば危険度は低いということになるのだが、それは退治するにあたって魔法や特別な武器などを必要としないことも踏まえてそう格付けがされている。凶暴さと殺傷能力に関しては、上位評価の
だからたとえ最下評価といえど侮ってはいけない。もし戦う術のない人間が襲われでもしたら、いとも簡単に大きな四本爪で体を引き裂かれてしまう。そして、それは戦闘訓練を受けている騎士だって例外ではない。新米であろうと歴戦であろうと、一歩間違えれば誰だって命を失う危険性はある。
だからこそ新人の周囲には経験豊富な部下を数人、控えさせていた。
その部下たちは時折、
レイチェルがこうして離れた場所で安心して見ていられるのも、そのためだった。
「さーて。あと一体は誰が倒すかなー」
とはいえ、新人が命のやり取りをしていることには変わりない。それなのに副長のウーデルときたら、まるで闘技大会でも観戦しているかのように楽しげだ。
彼の人となりはまだ半年あまりの付き合いでしかないレイチェルもそれなりに理解してきてはいるが、それでも呆れるような視線を向けずにはいられなかった。
そのときだった。
「隊長! 副長! 後ろ……!」
新人の一人がこちらに向かって叫んだ。
レイチェルとウーデルは肩越しに背後を見る。そこにはまさに今、新人たちが相手にしている同型の
「こいつら意外と知性ありますよねー」
「気配の消しかたは知らんようだがな」
低く
そんな様子の二人が癇に障ったのか、
二人は瞬時に左右へと飛び退く。
斜め上から振り下ろされた四本爪をレイチェルは軽くかわすと、剣を抜いた。
次の瞬間、四本爪が右手ごと切り離される。
四肢を失った
「お見事です」
拍手をしながら歩み寄ってくるウーデルを、レイチェルは半眼で迎える。
「上官が危険に晒されていたというのに、いいご身分じゃないか」
ウーデルが剣も抜かずに観戦していたことは、レイチェルも戦闘の合間に見ていた。
「またまたご冗談を。こんなの隊長には危険の『き』にも入りませんでしょうに。それに」ウーデルが横に顔を向ける。「新人に隊長の実力を見せておくのも、部隊を円滑に回すためには必要なことですよ」
ウーデルの視線の先では、新人たちがレイチェルに向けて剣を持った手を掲げている。どうやら先に決着がついた新人たちに、今度はこちらが観戦されていたらしい。
「もっともらしいことを言いおって」
そう言い捨てながらもレイチェルは口許を緩ませた。流石に健闘を称えてくれている新人の前で仏頂面はできない。それにウーデルも、その場しのぎであのようなことを言ったのではない。あれは新米隊長に向けて、経験豊富な副長としての助言だ。それぐらいはレイチェルも理解している。だとしても、すぐに助勢できない距離で観戦するのはどうかと思うが。
「ほら副長」レイチェルはため息交じりに言った。「仕事してくれ」
「了解です」
ウーデルは軽く
そのウーデルと入れ替わるように三人の新人がやってくる。三人はレイチェルの前に立つと一様に「お疲れさまです」と敬礼をした。レイチェルは答礼をする。
「お疲れ。アクセラ、フレイア、オクト。先ほどはいい連携だったぞ」
それをフレイアとオクトは「ありがとうございます」と謙虚に受け取り、アクセラは両手を腰に誇らしげに胸を張った。
「伊達に士官学校からのダチじゃないっスからね! あ、もちろんエルデーンも」
アクセラが口にしたもう一人の同期は今、ウーデルと話をしている。
「ってあれ?」アクセラが意外そうな声を出した。「こいつまだ生きてるんスか?」
レイチェルの剣により地面に
「ああ」
「今回の任務って
「可能ならば生きたのも欲しいそうだ」
だからレイチェルはわざわざ
「なんだーそれならそう言ってくれれば手加減しましたのにー」
不服そうにしているアクセラを、フレイアが
「馬鹿。初めての相手に手加減なんてしたら危ないでしょ」
「あ! 今、馬鹿って言ったか。フレイア!」
「言ってないわよ。空耳じゃない」
「なんだ空耳か」
素直に納得するアクセラに、レイチェルとオクトは目を合わせて温かに苦笑する。
新人が入隊して一ヶ月半。このやり取りはレイチェルも何度か目にしていた。
オクトの話では二人は幼馴染だという。その言葉に特別、郷愁を覚えてしまうレイチェルにとって、二人の関係はなんとも微笑ましい気持ちになるのだった。
「それにしても、こんなに間近で生きた
オクトは遠巻きに怖々と
「さっきも見てたじゃん。目の前で」アクセラが言った。
「先ほどはそんな余裕なかったよ」オクトは泣きそうな顔で答える。
「ビビリだなーオクトは」
「えぇ? アクセラは怖くなかったの?」
「ぜーんぜん。こんなのうちの母ちゃんに比べたら可愛いもんだぜ」
アクセラは無造作に
「うおっ!!!」
それに驚いて飛び退いたアクセラが、体勢を崩して尻餅をついた。それを見てオクトとフレイアが笑う。アクセラはそんな二人を下から睨みながらも、なにも言わず恥ずかしそうに口を尖らせている。強気なことを言った手前、言い返すことができないのだろう。
全く仕方のないヤツだ――レイチェルは苦笑すると、アクセラに手を差し伸べた。
「不用意に近づくと、私のような灰目になるぞ」
そして、注意も踏まえて冗談を口にする。本当は
「反応に困る冗談、言わないでくださいよー」
その言葉通りアクセラは少し困惑した表情を見せると、手を取り立ち上がった。
「それが冗談って分かるだけでも大したもんだ」
この場の誰でもない声に、四人は声が聞こえた方向へと顔を向けた。交戦跡からウーデルがこちらへと歩いてきている。
「大抵の人間は冗談と分からず気まずそうな顔するからな。なのに懲りないんだーこれが」
ウーデルはレイチェルの前で立ち止まると、やれやれ、とでも言うように肩をすくめた。
「自分から
「人によると思いますけどねぇ。とまぁそれはさておき」ウーデルが上半身を傾ける。「研究棟の回収班が到着しましたよ」
背後を振り返ると、遠方に小さく数頭の馬にまたがった人間と荷馬車が見えた。
「副長。あとは任せていいな」
レイチェルは腰に下げた鞘を剣帯から外すと、ウーデルに投げた。
「ええ」それを受け止めながらウーデルは答える。「現場仕事なら喜んで」
その意気揚々とした様子にレイチェルは息をはくと、アクセラに向き直った。
「アクセラ。新人を馬のところに集めてくれ。
「了解!」
アクセラは元気よく敬礼をした。
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