第9話
どれくらい走ったか、分からない。だが気付いた頃には、ベリアルはドームの外へと出てしまっていた。
露店などのある通りからは外れた広場。空はもう夜闇に覆われていて、ドームから漏れる光のおかげで真っ暗でこそないものの閑散としたそこは他の場所と比べると少し暗いし、何より静かだった。
だが、むしろ今のベリアルにとってはその方が良かった。混乱し、演算に障害を生じている電脳を少し休ませたかった。
ドームの方では、もう少し前から音楽は聞こえなくなっていた。どうやらライブイベントは終わったらしい――そんなことを考えながら、ベリアルは辺りのベンチに腰掛けてぼんやりと空を仰ぐ。
夜風が頬をくすぐって、程よく頭を冷ましてくれる。人間態を構築した時、一応五感を設定しておいたのは正解だった。この冷たい風が、今はとても心地よかったから。
「……私は」
先ほど観た、リンカのライブを思い起こす。
そしてあの瞬間、思考ルーチンの中を迸った奇妙な……人間の表現に照らしあわせるなら「心地悪い」感覚。
恐らく他の二人も同じように感じていたのだろう。
それは恐怖と、そして――「憧れ」だ。
「……非論理的だ」
誰にともなく、一人呟く。それこそ非合理的な振る舞いだが、ベリアルはそれを自覚することもなく、夜空の星に手を伸ばす。
ああそうだ。我々は、私は、あのリンカというアイドルのことを、彼女がやっていたことを、理解できなかった。
理解できず、だから恐怖して。けれど何より、ああなりたいと思考した。
「……なぜだ。なぜ、一体何が、違ったというのだ」
自問し、ベリアルは己の記憶を遡る。自分たちは、完璧だった。なのにリンカとは、何もかもが違っていた。
曲目の問題か? もともとの人気や知名度か。……いや、違う。それでは説明しようのない決定的な何かが、我々とリンカとの間にはあった。
それは、一体――そう、思考を巡らせていた時だった。
「おい、嬢ちゃん。一人かい?」
「お母さんとはぐれちまったのかなぁ? 払うもん払ってくれれば、お兄さんたちが探してあげてもいいぜ?」
少し遠くでそんな下品な男の声が聞こえてきて、ベリアルはそちらに視線を向ける。
するとそこでは、一人の少女が二人の男に絡まれていた。
人間の年齢の判別はいまだ難しいが、ベリアルの外見年齢よりも少し幼い……十二歳かそこらだろう。着ている服はあまり上等な仕立てにも見えない、となると恐らく「廃棄街」の方の住人か。
対する男二人も似たようなものだったが、とはいえ少女が怯えた様子であるのに対してこちらは顔にいやらしげな笑みを浮かべている。何より人相が悪い。
「あの、いいです。結構です……」
そう拒否の声を上げる彼女に対し、男二人はにやけ面のまま、
「つれないじゃん。俺たちは親切心で言ってやってるんだぜ。……どうだい、何なら俺たちと今から一緒に来ない? お兄さんたち、君みたいな子供を集めててさぁ――」
「やめて、ください……」
困惑をあらわにしながら抗弁する少女であったが、ガラの悪そうな男二人はその言葉に聞く耳を持たず、彼女の手を握ろうとして――
「やかましい」
気付いた時には、ベリアルは彼らに向かってそう口を挟んでいた。
「あん……?」
「考え事の邪魔だ、そこで揉めるな、愚かな人間ども」
苛立ち混じりにそう告げると、男たちは少女から手を離し、代わりにベンチに座るベリアルの方へとやってくる。
「……おっ、なんだよけっこう――いや、かなりカワイイじゃん」
「お嬢ちゃん、不機嫌そうだけどどうしたんだい? 彼氏とケンカでもした?」
ベリアルを見るや再び顔をにやつかせてそう言ってくる二人。そんな二人を前にベリアルは立ち上がると、大仰にため息をついてこう返した。
「もう一度言う。考え事の邪魔だ――消えろ」
一切の混じりけない敵意。そのベリアルの言葉に、男二人の顔がひくつく。
「おいおい、そういう言い方はないんじゃない? 俺たち優しいけどさ、ちょっとムカついちゃうっていうか。ナニか悪いことしちゃうかも、しれないぜ?」
言いながらベリアルの細腕を掴んでくる男。反射的に振りほどこうとするベリアルだったが、びくともしない。……そう言えば、首輪のせいで今は人間の、しかも見た目通りの小娘程度の身体能力しかないのだ。
これは……あまりよろしくない。内心で焦りつつ、男どもを睨みつけていると――その時のことだった。
「いって!」
叫びながら、掴んでいた手を離す男。見ると、先ほど絡まれていた少女――彼女が投げた石が、男の手に命中したようだった。
呆然とするベリアルに、少女が声を張り上げる。
「今のうちに、逃げて!」
是非もなかった。少女の方へと駆け寄ると、ともに全力で走る。
「このクソガキどもッ……!」
後ろから飛んでくる怒号。すると隣を走る少女は、ベリアルの手をぎゅっと握った。
そんな彼女の手を――ベリアルもまた握り返す。
どうしてそうしようと思ったのかは、自分でも分からなかった。
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