瑠璃色を瓶に詰めて

モリアミ

瑠璃色を瓶に詰めて

 テルメズはギリシア語で暑い所というthermosが由来らしい。ウズベキスタンで最も暑いこの都市は、別の理由によって世界的に重要な場所だ。その理由というのは主に河の対岸にある。アフガニスタン=ウズベキスタン友好橋は、2つの国を結ぶ唯一の経路だ。但し、この橋を行き来するのは難点がある。経済関係を重視しているウズベキスタン側も、人員の流入に関しては厳しい。それに、日本の外務省も未だに退避勧告を出したままだ。僕だって仕事でもなければここまで来たりはしない。じゃあ、こんな場所まで来る仕事って何か、気になるところだろう。僕の仕事は……

「久しぶりだな、ラズーリ」

 不意に後ろから声を掛けられた。ただ、それが誰かは振り向かなくても判る。

「マスード、元気そうだな」

 マスードは、僕の事をラズーリという渾名で呼ぶ唯一の人間だ。僕の苗字は瑠璃ルリという変わった苗字をしていて、マスードに初めて会ったとき、瑠璃がラピスラズリのことだと教えた。それがよっぽど気にいったのか、以来彼は僕のことをラズーリと呼んでいる。僕自身、子供の頃から渾名で呼ばれた経験が無かったから、ラズーリと呼ばれるのは少し嬉しくもあった。大抵は皆、僕のことを瑠璃と呼ぶし、その方が識別しやすい訳だから当然である。下の名前で呼ばれることだって滅多に無い。そんなのは家族かよっぽど親しい友達だけだ。まぁ僕よりも珍しい名前の友達もいるが。

「どうした? 今回は何時もより来る時期が早いな、何か訳有りか?」

 マスードはニヤニヤしながら僕の方を見てくる。僕は1年に1度、仕事の為にこっちに来ているが、今回は少しだけ時期を早めていた。マスードはその原因を僕の口から、聞き出したいのだろう。

「急に休みが出来て、こっちの方を友達と観光することになったんだ。それでついでにお前の顔を見に来たんだよ。メールでもそう伝えただろ」

 マスードは、僕が少しイライラしたのがよっぽど嬉しいらしい。

「友達っていうのはあの友達だろ? 前に写真で見せてくれた彼女だろ? どうして居ない? 一緒に来れば良い」

 本当に突然出来た休みで、友達と観光する約束もギリギリだったから、彼女とはこの後現地集合する予定になっていた。それに、こんな下世話な奴に会わせたくは無い。

「観光は仕事を済ませた後だ。物はちゃんと持って来てるんだろ? まさか検問で没収されたりして無いよな?」

 マスードが目の前にいる以上、検問は問題無く通って来ているはずだ。それなら、物もしっかりあるだろう。まさか手ぶらで来た訳が無い。

「ラズーリ、お前はもっと冗談に付き会った方が良い。折角、久しぶりに会ったんだ。全く、検問を通って来るのも楽じゃ無いんだぞ。今でもここら辺はピリピリしてるんだ」

 マスードはやれやれとこれみよがしに溜め息をついて見せる。確かに、物が物だからスムーズに検問を越えるのは難しいのだろう。だけど、物が物だからこそ通って来れるとも言える。何故ならこれは商売、つまり経済的な活動だからだ。

「だったらそれこそさっさと済ませよう。モタモタしてると、夜までに家に帰れ無くなるぞ、お前がな」

「確かにな」

 そう頷きながら、マスードは懐に手をやる。その仕草に、僕は少しだけ緊張してしまった。それは場所柄、仕方の無いことだ。

「今回も上物だぞ、ほら、見てみろ」

 マスードが懐から取り出したのは、小さな青い塊だった。僕はそれを受け取り確かめる。

「それはサンプルだが、大体は同じグレードの物を揃えてある」

「なぁ、コレは割って見ても大丈夫か? やっぱり中まで見てみないと良し悪しが分からない」

 僕の言葉にマスードは苦笑いを浮かべながら答える。

「ラズーリ、お前は相変わらず慎重な奴だな。それは好きにして良い、元からお前がそう言うだろうと思ってたんだ。だけどな、何度も言ったが……」

「ああ、分かってる。自然の物だからな、これ1つ確かめてもしょうがない。ただ、僕達の間で物に対する共通認識が有るか確かめたいだけだ」

 そう言って道具を用意する僕のことを、マスードはきっとしょうがない奴だと思っているのだろう。

「全く、そんな上物を粉々にするのはお前くらいだぞ」

 マスードのその言葉を聞かない振りをして、僕は仕事に集中する。情勢の不安定な場所で、小さな塊の取り引きをする、そんな僕の仕事は決して怪しいものでは無い。なんたって、僕はしがない画材屋だからだ。但し、世界一高価な画材を取り引きしている。


 瑠璃色の石、ラピスラズリ。僕は毎年、この石の仕入れをしている。それはこの石が僕の仕事に必要だからだ。宝石商でも、ましてや密売人でもない、画材屋にどうしてラピスラズリが必要なのか、不思議に思う人もいる。そんな人に説明するなら、一番簡単なのはかの有名なフェルメールだ。フェルメールの名画、その中で最も印象的な青色、何を隠そうあの青色はラピスラズリから出来ている。ウルトラマリン、かつて地中海を越えて西洋にもたらされた青色は、世界で最も高価な色と呼ばれた。その価値は当時、金よりも高かった。西洋だけで無く東洋でも、仏教画などに用いる群青にはラピスラズリが原料だ。その群青もラピスラズリよりも廉価なアズライトの方が一般的で、限られた用途にしか使用は許されていなかった。今では安価な合成のウルトラマリンもある。それでも、『天然のウルトラマリンを手に入れられるならば自分の耳を切ってもいい』という人間もいる。まぁ実際のところ、合成のウルトラマリンの方が、青色の発色が良く使い易い。天然のラピスラズリには青色以外にも金色などが混じり、不純物も多い。使い方に依っては思ったとおりの色合いにはならない。ただ、その金色の混じった複雑な色は、天然のラピスラズリでしか表現出来ない色だ。世界一高価で、世界一気難しい色、だからこそ現代でも熱心なファンが存在しているのかもしれない。


 マスードとは何度も取り引きをしている。彼の目利きは一流だ。それでも石には個体差はあるし、どれ位不純物があるかは直接確かめたかった。ラピスラズリを砕いて絵の具にする場合、鉱石中の青色の純度は非常に重要だから。

「なぁラズーリ、石を確かめるのにわざわざ来ることなんて無いんだぞ。今の時代、家に居たままで何でも判る。割って確かめるの何て、俺が変わりに出来ることだ」

 マスードは、何かを言い聞かせるような口調でそう話し掛けて来る。僕のことを心配しているんだろう。彼の国は、決して安全とは言い難いからだ。

「お前のことは信用しているよ、ただ、年に1度、友達の顔を見に来ているだけだ」

「そうか」

 マスードはそれ以上何も言わなかった。僕は石をルーペで確かめながら、彼と初めて会ったときの事を思い出していた。当時から彼の国は不安定な情勢だったが、今よりはまだましだった。マスードは少しだけ彼の国を案内してくれた。それこそ、ラピスラズリの採れるサリサングの鉱山にも連れて行って貰った。マスードと意気投合したのは道中の、車の中だった気がする。どんな話しをしたかはあんまり覚えてはいないが、子供っぽい話しだった気がする。友達の事、好きな女性のタイプ、それに彼女のこと。

「なぁラズーリ、今日は石以外にも良いものがあるぞ、見てみろ」

 僕が鉱石を確かめ終わるのを見計らい、マスードが何かを取り出した。

「良いもの?」

 何と無く嫌な予感がする。目の前のニヤケ面は全く信用出来ないものだ。

「ほら、良く見ろ。綺麗だろ、お前の“友達”にピッタリだ。お土産があれば友達もきっと喜ぶぞ」

 マスードが取り出したのは瑠璃色の石のペンダントだった。マッサードは良く見ろと言わんばかりに、僕の顔の近くまで持って来る。

「何がピッタリだよ、会ったことも無いくせに」

 マスードに彼女を、友達のことを話したのは失敗だった。一生の不覚だ。

「その辺の外国人目当ての輩にぼったくられるより、信用出来る相手から買った方が良いぞ。特別、安くしてやる」

 どうして僕がこういう物を買う前提になっているんだろう。だけどまぁ、こういう物を買うなら信用出来る相手の方が良いのは確かではある。

「次は無いからな。来年お前が何を持って来ても受け取ら無いぞ。それで、それは位なんだ? どうせキャッシュなんだろ? 手持ちが無かったら払い様が無いぞ」

「ハッハッハッ、話が分るなラズーリ、安心しろ、本当に対した値段じゃ無い」

 マスードが示した額は思っていたより安かった。ただ、こういう物の価格帯がイマイチ分からないから何とも言いえ無い。原石は何度も買ってきたっていうのに、全く情けない話だ。

「石を送るのは何時も通りで良いな? 振り込みが確認出来たら発送するぞ」

 マスードの満足顔ときたら憎たらしい。小遣いが稼げて嬉しいことだろう。

「振り込み時期はまだ先だからな、今回はたまたま早く来ただけで、うちに在庫がまだ有る」

「ああ、勿論それで問題無い」

 マスードが何時もの通り手を差し出す。最初の取り引きからの決まり事だ。彼いわく、それが商売の作法らしい。そして握手は僕らの別れの挨拶になった。

「ラズーリ、お前のおかげで俺は子供を撃たなくても飯が食える」

 マスードの冗談は何時だって笑えないものばかりだ。それに、手を握る彼の笑顔には感情の欠片も無い。天然のラピスラズリには色んな鉱物が混ざっている。僕はそれを砕き、綺麗な瑠璃色だけを取り出す。位かかっても、その瑠璃色が欲しい人間がいる限り。僕は瑠璃色だけを瓶に詰め、海の向こうへと送る。

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