第37話 撫子その2

世間一般のご夫婦よりもはるかに長い時間一緒に過ごしているわけだが。


「息抜きは・・・別に・・・売り上げノルマがあるわけでもないんで」


正式に知晃の妻になることが決定してからも、知晃は音々に何かを強いたことは一度もない。


湯上りの身支度に手間取っていると、焦れた知晃が不機嫌顔で脱衣所まで攫いに来ることはあるけれど、それだって強引ではないのだ。


妻としてはこの上なく恵まれた環境に居させてもらっていると思う。


「俺はひとっ言も店開けろなんて言ってねぇからな?音々の行動を制限してもないし・・・・・・お前みたいに箱庭作って屋敷の中に閉じ込めてねぇわ」


厭味ったらしく言い返した知晃に、西園寺が大げさにのけぞった。


年下の妻を溺愛している西園寺の私生活は訊かずとも耳に入ってくるのだが、閉じ込めている、という表現が正しいかどうかまでは分からない。


元々内向的な奥様だと話には聞いているのだが。


「えええ人聞き悪い事言わんといてや。うちのおひぃさんもともとインドアやもん。俺が連れ出さなほとんど表出えへんのは昔からや」


話題のスポットも俺が誘わな興味さえ持たへんのに、と西園寺がぼやいた。


日本画が趣味の妻のために、庭の手入れを欠かさない西園寺邸は、四季折々の花が咲き乱れて植物園要らずの状態らしいから、一日中自宅で過ごしても飽きることはないのだろう。


その気持ちは何となくわかる。


広い庭がなくとも、伊坂家の縁側で夫婦でのんびり過ごす時間は何よりも幸せを感じられる。


時には羽目を外した知晃が際どい悪戯を仕掛けてくることもあるけれど。


それだって夫婦二人きりの甘い秘め事だ。


「・・・どーだか」


西園寺の反論にぶすっとした顔で答えた知晃が、胡坐の上に頬杖をついた。


まるで聞く耳を持たない旦那様の態度に、さすがにそれはやりすぎでは?と音々が迷えば。


「うーわ感じ悪。自分も家庭持った途端強気に出てくる男はあかんで。音々ちゃん、気ぃつけや、知晃がこんなに誰かに執着したんは初めてやから、これからもっと口煩くなるで?」


ここぞとばかりに西園寺が攻撃を仕掛けてきて、苦笑いを浮かべることになった。


両親を亡くしてから、姉は音々の将来の為に少しでも貯蓄を増やそうと真面目に働いてくれた。


忙しい姉の手を煩わせないようにと、甘えることなく過ごして来た時間があるせいか、知晃からの執着は少しも苦痛ではないのだ。


むしろ、自分に向けられている愛情に安心する。


求められれば求められるほど、此処に居てもいいのだと実感が持てるのだ。


たぶん、音々のそんな心境を知晃も理解しているから、肌に触れる時はとくに執拗になる。


唇の痕は夜の熱さを思い出させて、そのたび胸の奥が甘く震える。


知晃に惹かれたのは、きっと運命だったのだ。


「・・・・・・あはは・・・あの、でも、ほったらかしにされるよりは・・・」


嬉しいです、と小さく付け加えた音々に、知晃が誇らしげに胸を張った。


「ほら見ろ、余計なお世話だ」


伸びて来た手が後ろ頭を撫でて、まとめ髪から零れた後れ毛を優しく擽られる。


「んっ」


項を指の腹が掠めて、思わず声が漏れた。


慌てて知晃の手を振り払って睨みつけるも、彼の表情はどこ吹く風だ。


赤くなった寧々の頬を撫でる知晃をげんなりと一瞥して、西園寺がひやしあめを飲み干して腰を上げた。


「うーわー新婚に当てられてしもた・・・・・・俺も寂しなったから帰ろ・・・」


「帰れ帰れ」


「言われんでも帰るわ。あ、そや、音々ちゃん、今日の着物も可愛いわ。撫子柄、よう似合てるで。さすがの見立てや」


西園寺からの賛辞に火照る頬を押さえてこくこく頷く。


「あ、ありがとうございますっ、でも、あの」


「これは俺の見立てだよ」


勝ち誇ったように知晃が言って、音々の肩を抱き寄せた。


頬に唇の感触がして、すぐにつむじにキスが落ちる。


瞠目した西園寺が、苦笑いを浮かべて店から出ていった。


二人きりになった途端、改めて音々の着物を確かめた知晃が朗らかに告げた。


「撫子の柄は、可愛い子って意味があるんだよ」


おまえにぴったりだろ、と頬を緩める旦那様に抱き着いたのは、そのすぐあとの事。

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