第36話 撫子その1

「音々ちゃんもすっかり知晃の奥さんやなぁ」


いつものように妻用のプレゼントの見立てを依頼していた西園寺が、小梅屋に着物を取りに来て、そんなことを言った。


ここ最近は、知晃も車で出かけることが多く、現地集合が増えていたので、西園寺の顔を見るのも久しぶりだ。


昨日知晃がお土産に買って来た懐かしいひやしあめを、レジ裏の畳のスペースにお盆ごと押し出しながら、音々は笑顔を浮かべた。


”ほんとに音々ちゃんは働き者の奥さんねぇ”


”可愛い若奥様がいて知晃くんは幸せねぇ”


近所に住む常連のお年寄りたちが毎日のように掛けてくれる褒め言葉ももちろん嬉しいけれど、久しぶりに会った西園寺のしみじみとした言葉は、二人の馴れ初めを知っている彼だけにずっしりと胸に響いた。


両親を亡くしてから姉と二人暮らしをして来た音々にとって、家族は温かい思い出でしかない。


大雑把な父親に小言を零す母親も、バラエティー番組を見ながら家族で盛り上がった思い出も、ささやかでかけがえのない時間だった。


母親以外の家族にあまり良い思い出のない知晃が、ほっと心を和ませることが出来るような存在になれているのなら、嬉しいと思う。


「え、ほんとですか?嬉しい。西園寺さん、ひやしあめ飲めますか?」


「飲むよー。懐かしいなぁ。これおばちゃんがしょっちゅう出してくれとったやつやろ?」


一口飲んで味おんなじや、と目を細める西園寺に、知晃が意外そうな顔になった。


「なんだ覚えてたのか」


「覚えとるよ。夏場はいっつもこれとカルピスやったよなぁ」


「あ、うちはカルピスが主流でしたね」


「いまは味も色んな種類あるやろ?こないだもろたお中元のカルピス、ぎょーさん余ってるからまた届けるな」


「わあ!ありがとうございます!」


夏場は学校から帰ったら、母親が冷たいカルピスを作ってくれた。


その日によって味が濃かったり薄かったりして、それも今となっては良い思い出だ。


「音々はうちに来たときから嫁だっただろ」


偽装妻の役目を担う代わりに無一文の自分を居候させてくれた知晃からしてみれば、いまも昔も音々は嫁、という扱いなのだろうが。


音々としては、ちゃんと名前で呼んで貰えるようになるまで仮初の嫁という肩書きが頭から離れることはなかった。


そして、それは知晃に対しても同じことで、旦那様、と呼んで一線を引いていた偽装妻時代を経て、知晃さんと、と彼を呼ぶようになったことで、自分が本当に彼と結婚したんだと感じることが出来た。


彼から呼ばれる名前がどれくらい胸に甘く響くのか、知っているのは自分だけ。


相変わらずクールな知晃の反応に、西園寺がやれやれと肩をすくめた。


「あれは偽物やん。こう妻としての貫禄ゆーか存在感ゆーか・・・伊坂の苗字に慣れて来た感じするわ。四六時中構われて鬱陶しなったら相談しといでや?うち部屋余ってるでな」


西園寺が結婚を機に住み始めた高台の屋敷は、コンサバトリー付きの6LDKだか7LDKだからしく、とにかく大きい。


元は大正末期に建てられた洋館を改築したという新居は、広々とした庭に囲まれた立派過ぎる邸宅だ。


客間はいくつもあるらしく、以前から何かあったらいつでもおいでと言われている。


無言でひやしあめを飲んでいた知晃が、ぎろりと鋭い眼差しを西園寺に向けた。


彼がこうも遠慮なしに態度を悪くするのは古い友人を相手にした時だけだ。


「なに新妻に家出持ち掛けてんんだてめぇは」


隣で見ている音々でさえハラハラしてしまうくらいの眼光の鋭さにも拘わらず、西園寺は顔色一つ変えずに笑ってみせた。


これくらいの豪胆さがなくては西園寺家当主は務まらないのだろう。


「そやかて、職場は家から30秒やし、新妻が息抜きする時間もあらへんやろ?」


おっしゃる通り、渡り廊下のすぐ先が小梅屋なので、通勤時間はほぼなし。


普段は音々が一人で店に出ていて、気まぐれに知晃が顔を出すが、食事は一緒に摂るようにして居るので離れている時間はほぼないのだ。


偽装妻を演じていた頃は、知晃は起床時間がまばらで、昼近くまで眠っている日も少なくなかったので、夕飯以外はほとんど別にしていて、知晃が西園寺と出かけて深夜まで戻らない日も多かった。


あの頃のすれ違いが嘘のように今は、朝起きる時間から一緒である。


なんなら朝食準備にキッチンに立つ音々を手伝って、お味噌汁の味付けをしたり、食器を並べたりとまめまめしい主夫っぷりを見せつけてくれている。


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