第34話 葡萄その2

夕飯のおかずは、昨夜ウエノマートの店長が届けてくれた売れ残りのコロッケがまだあるし、松本のおばあちゃんが差し入れしてくれた冬瓜の煮物もある。


家庭菜園で採れたてのトマトときゅうりを届けて貰ったので、サラダ素麺でも作ろう。


そんなことを思いながら居間に入ったら、ちりりんと風鈴の音が聞こえて来た。


家の裏手にある庭は綺麗に芝が刈られていて、背の高いヒイラギモクセイが日差しをうまく遮ってくれるので夏場でもそう暑くない。


どうせ知晃は当分帰ってこない。


西園寺の顔役でもある緒巳と連れ立って出かけると、大抵誰かに呼び止められて立ち話に付き合わされるのだと、いつだったか知晃がぼやいていた。


一足先に逃げてやろうと目論んでも、すぐに伊坂呉服の・・・と声を掛けられてしまい、結局西園寺と二人で年寄りの与太話に付き合う羽目になるのだという。


おそらく今日もそのパターンだろうから、せかせか素麺を茹でることはない。


昨夜も風呂上りに使ってそのまま畳の上に置きっぱなしの団扇を手に、縁側に腰を下ろす。


少しずつ色を変えていく茜空を見上げて、忙しなく鳴いている蝉の声を聞いた。


こんな風に穏やかな日々が訪れるなんて。


恋愛も結婚も絵空事でしかなかったあの頃の自分が見たら、きっと仰天するに違いない。


毎日旦那様の見立てた浴衣に袖を通して、違う帯び結びを楽しんで、それから夜は・・・


「~~っ」


昨夜も湯上りの熱が冷めないうちにたっぷりと愛された記憶が頭を過って、勢いよく団扇を動かした。


真っ赤になった音々の顔を覗き込んで、楽しそうに頬に唇を寄せた彼は、明日の浴衣ももう決めてあると言って、寝室の片隅に置かれている浴衣を指さした。


浴衣と帯の組み合わせで迷う時間は必要ないと言外に告げられて、つまりはギリギリまで寝ていていいという事だと理解して、それから、朝いつも通り起きられないくらいするつもりなのだと気づいた。


音々の予想はその通りになって、日付が変わっても知晃はなかなか新妻を手放そうとはしなかった。


しばらくは夫婦二人で過ごそうと決めているが、これから本格的な子作りが始まったら、一体どうなってしまうのか。


音々の年齢的にも焦ることはないし、知晃も是が非でも子供が欲しいというわけではない。


元々小梅屋は自分の代で終わらせるつもりだったので、跡取りが必要ということもない。


けれど、音々との子供なら何人でも欲しい、と知晃は言った。


複雑な家庭環境で育った彼は、家族を持つことに少しも前向きでは無かったので、心境の変化に驚いて、けれどやっぱり嬉しかった。


だから、いつかは産みたいと思っている、のだけれど。


昨日の事を思い出して狼狽えている自分では、まだまだ良妻には程遠い。


火照る頬を押さえて、ふうっと息を吐いたら、居間のほうから声がした。


「なんだ、悩みごとか?」


「あっ、知晃さん!帰ってたんですね!?」


引き戸が開いた音にも気づかないくらい物思いに耽っていたらしい。


「一瞬寝てるかと思ったよ・・・え、なに、おまえ熱でもあんの?」


鬱陶しそうにジャケットを脱いだ知晃が、ネクタイを緩める手を止めて足早に縁側に歩いてきた。


「っな、ないですっ!ちょっと考え事を・・・・・・」


しまった、素直に言うんじゃなかった。


慌てて団扇で口元を覆えば。


「赤くなるような考え事してたのかよ・・・・・・なに、エロい事?」


隣に胡坐をかいた知晃が、じいっと探るようにこちらを見つめて来た。


「し、してませんっ」


団扇をもっと持ち上げて完全に顔を隠してしまう。


彼に瞳を覗き込まれると、頭が回らなくなってしまうのだ。


それに気づいたのは、初めて夜を一緒に過ごした日。


知晃の布団の上に押し倒されて、真上からこちらを見下ろす射抜くような眼差しに釘付けになって、そのすぐ後に思考がぐにゃりと歪んだ。


そこからはもう恥ずかしいのと気持ちいいのとが交互に襲って来て、わやくちゃになった。


知晃の指に反応を返して従順に潤んでいく身体を、彼は嬉しそうに確かめて、最後まで優しく抱いてくれた。


「ふーん・・・してたんだ?」


団扇を奪おうと音々の手を掴んできた知晃を膝立ちになって押し返す。


「だから、してないって・・・」


違う違うと首を横に振れば。


「昨夜のこと?」


ぐっと力を込めて団扇を奪い取った知晃が、それを背後に放り投げた。


真正面から見つめられて、息が止まる。


「~~~っっ」


涙目になった音々を見下ろして、知晃が眉を下げて笑った。


「おっまえほんと分かりやすいな・・・・・・んで、ここどうなってんの?」


口角を持ち上げたまま、乱れた浴衣の裾を持ち上げた知晃が、内ももに手を這わせてくる。


熱のこもったその場所を渇いた手のひらが撫で上げて、温度差に泣きそうになった。

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