第33話 葡萄その1
伊坂家で暮らすようになるまで、音々は縁側を使ったことが無かった。
ずっと団地住まいだったので、それはテレビの中でしか見たことがなかったのだ。
春と秋は日差しが心地よくて、座布団を並べてお昼寝するのに最適だし、夏は開け放って風鈴の音を聞きながら夕涼みが出来る。
冬は縁側があるおかげで、窓辺の寒さを知らずに過ごせる。
この家で小梅屋の次にお気に入りなのは、間違いなくこの縁側だ。
先週骨董市で一目惚れして買って貰った金魚柄の風鈴を、知晃に頼んでぶら下げて貰った。
風が吹くたび軽やかな音色を響かせる風鈴は、それだけで一気に夏らしさを運んでくれる。
梅雨明け宣言がされると同時に一気に真夏日が続くようになったので、小梅屋でも浴衣を多く店に出すようになった。
定番の朝顔や向日葵の柄を見るたび、ああ今年も夏が来たなぁと実感する。
音々にとっては、妻になって初めて迎える夏だ。
涼やかな翡翠色の地に葡萄の柄が描かれたシックな浴衣は、枯草色の帯でちょっと柔らかい雰囲気を添えてある。
見立ては知晃で、プラム色の帯飾りも彼が母親の遺品をひっくり返して見つけて来たものだった。
どうやら義母は、相当な着道楽だったらしい。
着物だけでなくて半襟などの小物も質の良い洒落たものが大量に出て来て、気に入ったものは貰っておけと言われて、恐る恐る二つほど帯飾りと帯留めを選んだら、げんなりした知晃が、横から手を出してきて、ぽんぽん品物を見繕ってしまった。
彼の手によって選ばれた小物たちは、いまは夫婦の寝室になった知晃の部屋の抽斗にしまわれている。
最近は、知晃が見立てた浴衣ばかりを着ている。
トルソーに着せ付けるよりも楽しいらしい。
どう楽しいのかは、尋ねるまでもない。
知晃の手が悪戯に肌を擽ったり、不埒な行為を仕掛けて来るたび赤くなったりうろたえたりする音々の反応を間近で見られることが楽しくてしょうがないのだ。
彼に着付けを任せると、自分でするより凛とした佇まいに仕上げて貰えるので好きなのだが、着付けを始めるまでに時間が掛かるところだけが難点だった。
時には昨夜の熱を呼び覚ますように触れられることもあって、覚えたばかりの甘い刺激に敏感になっている肌はすぐに火照って疼き始める。
そんな新妻を旦那様が放っておくはずもなく、あっさり畳の上に押し倒されることも少なくない。
その昔女友達と興味本位で見たファッション雑誌の恋愛コラムで、男性の性欲は20代がピークだと書かれていたのに、すでに三十路を超えているにも拘わらず、知晃が旺盛なことが不思議でしょうがない。
どこかストイックな印象を与える外見からは想像もできないくらい甘い夜を過ごしてきた音々は、彼が年上であることに本気で安堵していた。
だって今でさえアレなのに、これが二十代だったら、本当に音々は小梅屋の開店時間を遅めなくてはならない。
この町の花火大会は来月アタマで、それが近くなったら近所の子供たちが可愛い浴衣を探しに店にやって来るらしい。
定価の半額以下の商品ばかりが並ぶ小梅屋なのだが、毎年その時期はさらに浴衣の値段を下げて、子供たちが気兼ねなく好きなものを選べるようにしてやるそうだ。
その為に、知晃はB級品の浴衣の仕入れに今日も朝から遠方に出向いている。
こういう時は伊坂呉服の名前が大いに役立つらしく、いつもは眠らせている名刺入れを袂に入れる表情は商売人らしくてかっこよかった。
昼過ぎからは西園寺と一緒に花火大会の運営本部で打ち合わせなので、店は早めに閉めるように言われている。
日差しが強くなると、お年寄りは外出を控えるようになるし、常連さんたちは朝のうちに顔を見せに来てくれたので、17時前には戸締りをして母屋に戻った。
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