第32話 兎その2

「・・・・・・・・・行かないで」


気づいたら目の前の着物を握りしめて、そう答えていた。


「・・・・・・・・・」


自分が何を口にしたのか理解するまでに3秒。


理解して、訂正しようと思考回路を切り替えるまでにさらに3秒。


音々が口を開く前に、待ちきれなくなった知晃が顎に指をひっかけて唇を合わせてきた。


ぬるりと舌先で唇の隙間を舐められて、仰のいた瞬間キスが深くなる。


のけ反った背中を支えるように回された腕に力が籠った。


頬裏を擽って挨拶をした舌が、音々の小さな舌を探り出して絡ませて来る。


優しく表面を擦り合わせてから舌先を強めに吸って、舌裏を擽って。


行ってきますのキスでも、ご機嫌取りのキスでもない。


キスのその先を欲しがるキスだ。


次第に上がっていく呼吸に腕を伸ばして知晃の肩を強く掴んだ。


銀朱に白兎の描かれた袖がひらひら揺れてまるで兎が飛び跳ねているようにも見える。


ぼやけた視線の先で、射抜くようにこちらを見下ろす知晃の眼差しを見つけた。


咄嗟に奥に逃げた舌を追いかけてきてまた捕まる。


ほんの一瞬唇を解いた知晃が、後ろ頭を優しく撫でて項を擽って来た。


襟の隙間から忍び込んできた小指が優しく肌を撫でる。


「あの・・・・・・知晃さ・・・」


何時に出発すればいいんだっけ?


今日は西園寺さんと待ち合わせするんだっけ?


尋ねなくてはならないことは沢山あるのに、そのどれも口にする前にまたキスで唇を塞がれる。


帯の下で大人しくしていた手のひらが、腰のラインを辿ってからそっとお尻を撫でて来た。


「ちょ・・・」


お店は開けたままだしここは外から見える。


この時間お客が来ることなんて滅多にないけれど、完全にないとも言い切れない。


こちらを見下ろす彼の瞳には、綺麗に滾った情欲の炎が見え隠れしている。


これから出かけるはずなのに。


「シーっ」


小さく呟いた知晃が、立ち位置を入れ替えて店先に背中を向ける。


視界が遮られた事にホッとしたら、こめかみにキスが落ちた。


そのまま帯と胸の境目を擽られて本気で慌てる。


詰るように彼を睨みつけたらまたキスが落ちてきた。


上唇を強めに吸われて、開いた隙間を舐められる。


「んぅ・・・っ・・・」


舌先を擦り合わせて溢れかけた唾液をごくんと飲み込めば、ようやくキスが終わった。


倒れ込むように知晃の胸に凭れて必死に息を整える。


さっきの自分の無責任な一言が彼に火をつけてしまったことだけは理解できた。


後ろ頭を優しく撫でる手のひらはそのままに、知晃が反対の手で帯の隙間からスマホを取り出した。


「え、なに・・・?」


片手でスマホを操作する知晃に尋ねれば、つむじにキスが落とされる。


「いいから黙っとけ。その声聞かせたくないんだよ」


「~~っ」


どこか舌っ足らずな掠れた声は、二人きりの夜を彷彿とさせる。


知晃に抱かれた後の音々は大抵いつもこんな声になるのだ。


慌てて唇を引き結ぶと、短いコール音の後聞き覚えのある訛り声が聞こえて来た。


『もしもし?どないした?お前まだ家なん?』


「ああ。悪い。今日ちょっと遅れてく」


「っ!?」


西園寺に向けて告げられた報告に音々は目を見開いた。


ぎょっとなる新妻を見下ろして知晃が目を細める。


『はあ?なんで?俺今から出るから拾ったるわ』


「いや、いい。来んな。音々構ってから行くから」


『・・・・・・はあ?お前何言うて・・・』


げんなりした西園寺の声が返って来た。


居た堪れない気持ちでいっぱいになる。


絶対に西園寺にこの状況がバレた。


恥ずかしさで知晃の胸に顔を伏せればあやすようにつむじにキスが何度も落とされる。


欲しいのは慰めじゃなくて!と言いかけて、しっかり彼の着物を握りしめている自分が嫌になった。


「会が終わるまでには顔出す、多分」


『あ、おい、知晃!?』


慌てる西園寺の呼びかけの途中で一方的に通話を切った知晃が、そのまま電源をオフにした。


頬にキスが落ちて腰を攫って抱き上げられる。


レジ奥の狭い座敷の上に下ろされると、すぐに知晃が上から圧し掛かって来た。


乱れた裾から覗く足首を軽くつかんで引き寄せられる


脹脛を撫で上げてくる手のひらの熱は、いつもの夜以上に熱くて優しい。


膝裏を擽った手のひらがそろりと内ももを擽って来て、恥ずかしさと心地よさでぎゅっと目を閉じた。


「ち・・・が・・・」


こうして欲しくて引き留めたわけじゃない。


これではまるで抱いて欲しいとせがんだようだ。


必死に言い返せば、肩を掴んだままの音々の指先を掴まえて知晃が爪の先にキスを落とした。


そのまま指先をちゅっと吸われてぞわぞわとした快感がつま先から這い上がってくる。


「違わねぇよな?」


唇を噛み締めた音々の反応を知晃は見逃さなかった。


伸ばした腕の先で兎が軽やかに飛び跳ねる。


「時間作ったから。ちゃんと可愛がってやる」


小さく頷いたら背中を抱き寄せられて、帯が解ける音がした。


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