第31話 兎その1

「音々ぇ、俺の扇子どこ行った?」


間延びした呼びかけと共に母屋から藍鉄の羽織を着た着物姿の知晃が歩いてきて、音々は振り返ったまま数秒見惚れた。


本当に均整の取れた綺麗な身体をしていると思う。


和装が似合うのは骨格がしっかりしているからだ。


細身なのに頼りなさを感じさせない彼の落ち着いた佇まいはきっとこの後あまたの女性客たちの視線を集めるのだろう。


「居間のテーブルの上にハンカチと一緒に用意してますよ。さっきも言いました」


素っ気ない言い方になったのは最近覚えたばかりの嫉妬心故。


偽装妻だった頃はそういう感情を抱くことさえ許されないと思って、綺麗に蓋をすることが出来ていたのに。


彼がこの先自分以外の誰も選ばないと確信が持てた途端、湧き上がって来たのは口には出せないヤキモチだった。


「ああ、そっか」


音々の言葉に頷いて居間を振り返ろうとして、知晃があれ?と首を傾げる。


「・・・なに、お前膨れてんの?」


「えっ!?別に・・・怒ってません。それより今日は何時になるんですか?」


「さぁなぁ・・・・・・地域振興会のおっさんたちここぞとばかりに飲むからなぁ・・・」


「来られるの、男の人だけじゃないですよね?」


この地域でお店や会社を興している人たちの定例会である地域振興会は、経営者たちの懇親の場でもある。


これまでは年に一、二回程度しか顔を出していなかったらしいが、音々が来てから小梅屋を毎日のように開けるようになって、さすがに不精もできなくなったらしい。


「ああ、それで怒ってんのか」


「・・・・・・・・・なんで知晃さんは嬉しそうなんですかね?」


新妻がこんなにも不機嫌を露わにしていると言うのに。


こちらを見下ろす眼差しは蕩けるように甘ったるい。


なんならそのままキスでも仕掛けてきそうだ。


「早く帰ってきて欲しい?」


にやっと意地の悪い笑みを浮かべて尋ねられて、知晃の笑顔の理由が分かった。


偽装妻だった頃は、知晃の帰宅予定を気にした事は無かった。


何時に戻って来ても彼の自由だと思っていたからだ。


もう今は知晃の帰宅を待ちわびても構わないはずだと、無意識に主張してしまった自分が恥ずかしい。


「・・・・・・・・・あ、いえ・・・・・・お付き合いもあるでしょうし・・・」


咄嗟に視線を逸らして昨日下ろしたばかりの桜色のレース模様の鼻緒が可愛らしい草履を見つめる。


顔馴染みの行商がお店に持ち込んだ商品の中に入っていたそれは、一瞬で音々の目を引いた。


けれど、知晃がそれを気に入るか分からないので大人しくお茶を出した後はいつも通り店番に戻ったのだが、担当者が帰った後で楽しそうに音々を呼びつけた知晃は、音々が一目ぼれした草履を差し出してくれた。


草履を見た瞬間、音々の表情がぱあっと明るくなったことを彼は見逃さなかったのだ。


すぐに履いてもいいですか?と彼に尋ねると鷹揚に頷かれて、飛び跳ねたい気分になった。


ここに来てからずっと小梅屋では同じ草履を履いていたのだ。


そろそろ新しいものが欲しいなと思っていたタイミングで贈られたプレゼントに音々は大喜びした。


「まーなー・・・・・・この店腰据えてやってくって決めたから、それなりに付き合いもいるし、顔繋げといて損はねぇけど・・・・・・」


「で、ですよね!」


小梅屋は利益を上げるために開けているお店ではない。


あくまで趣味の道楽で母親が始めたお店を潰さない程度に維持しているだけ。


だから、音々は結婚後専業主婦になっても構わないと知晃は言った。


が、音々には最初からそのつもりはなかった。


これから先もずっと兼業主婦で小梅屋に立ち続けたいと知晃に伝えて、了承も取ってある。


音々にとって小梅屋は知晃と同じ位大切なお店だからだ。


そのお店の店主として、彼は地域振興会に出かけていくのだから、行ってらっしゃいと見送るのが正しい妻の在り方だ。


複雑な心境はともかくとして。


そんな音々の心の声を盗み聞きしたかのように知晃が言った。


「こら。素直に新妻らしく不貞腐れろよ」


きゅっと眉根を寄せた知晃に鼻頭を摘ままれて、音々は渋面を作った。


尖らせた唇にちゅっと吸い付いた知晃が、帯の下に慣れた様子で腕を回してくる。


半歩彼のほうに引き寄せられて、襟元に凭れれば、男性用の香水がほのかに香った。


外に行く準備をしている彼からはいつも同じ香りがする。


夜、知晃の腕の中で感じる香りとは違う外向きの匂いだ。


この着物の内側に隠された肌を、熱を、嫌というほど知っている。


音々が全力で縋りついてもびくともしない広い背中も、容易く腰を引き寄せる腕の強さも。


見栄えする和装姿はいつにも増して色気がある。


彼を見た女性たちが、どんな気持ちになるのか想像することはいとも容易い。


首筋に唇を寄せた知晃が、肌の表面をなぞりながら呟く。


「早く帰って来てって、もう言えるだろ?」



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