第30話 四君子その2

独りの楽しさと気楽さにしがみ付いているつもりはなかったが、こうして懐に他人を抱え込むと、これまでの日々がどれだけ味気なくて虚しいものだったのかが身に染みてわかる。


これまでは笑えていた西園寺の重たい愛情と執着にさえ同情してしまえそうだ。


一度知った温もりを、願わず手放すことになった当時の西園寺の荒みぷりはそれはもう目も当てられないような有様だったが、今ならそれも頷ける。


同じように、もしも音々が手元から消えてしまったら、自分も同じようになるだろうと思えるからだ。


今回音々を娶るまで重荷でしかなかった伊坂呉服の肩書は、最強の切り札になった。


『使わんと勿体ない』


と西園寺が零すたび、余計なお世話だと相手にして来なかったが、欲しいものを確実に手に入れるための使い道としては、これ以上の有用性は認められない。


庶子の子、として生まれた時からばっさり切り捨てられて来た知晃の境遇と、切り捨ててきた伊坂の家に対する西園寺の心象は決して良くはなかった。


恐らくこの先もずっとあの家で一人で暮らしていくのだろうと思っていた知晃は、伊坂家との付き合いもこのまま適当に躱して流していくのだろうと思っていた。


その考えが変わったのは、音々と出会ってからだ。


彼女をこの家に招いて本当の意味で新しい生活を始めるとなると、厄介ごとは極力避けて通りたい。


叔父一家をはじめ、伊坂呉服に名を連ねる役員連中までを一気に黙らせるワイルドカードを切ろうと決めて、西園寺に頭を下げた時には、心底驚いた顔をされた。


『のらりくらりはもうやめるん?』


『伊坂とはかかわりの無い場所で自由にさせてやりたいから』


『ええよ。正直、伊坂の人間は気に入らんけど、一肌でも二肌でも脱いだるわ。やーっと知晃が家族を作ろうと思ったんやから。ご祝儀代わりや』


そういってあっさり請け負った西園寺は、すぐにレガロマーレを経営する加賀谷にコンタクトをとって、ウェディングサロンの中枢に伊坂呉服を捻じ込んだ。


母体の老舗旅館を始めとして、最近は海外進出も果たした大手ホテルとの契約は、芳しくなかった役員連中の顔色を一気に晴れやかにして、西園寺が大げさに吹聴した”伊坂呉服の将来を憂いた知晃さんからどうしても力を貸して欲しいと依頼を受けて”の台詞を真に受けた親族たちからは生まれて初めて賞賛の言葉を浴びるほどかけられた。


当然音々との結婚に口を出すものは一人もおらず、叔父一家は手のひらを返したように二人の結婚を祝福してくれている。


音々には面倒な事情は伏せて、自分たちの結婚に異論を唱える者は一人もいないという事実だけを伝えておいた。


新婚生活に、憂いや迷いは必要ないからだ。


今は近づいてくる挙式披露宴に心躍らせる日々をただ満喫して欲しい。


山吹色の地に松と四季の花が描かれた鮮やかな打掛や、水色の地に菖蒲や橘が描かれた風景画のような打掛。


見れば見るほど着せてやりたいものが次々と出てくる。


毎朝その日着る着物を選ぶのが音々の日課になっているが、折角だからその役割を週に何度か譲って貰うのもいい。


彼女に銀座結びを教えた日、音々が選んだ着物は菜の花色で、合わせた帯は赤い薔薇。


御伽噺の”美女と野獣”のイメージで組み合わせたそれに、ティーカップのブローチを帯留めにしろと差し出したら音々はいたく喜んでいた。


あんな風に何かに合わせて彼女の着る着物のイメージをまとめるのも楽しい。


誰かを着飾らせることにこんなに心躍る日が来るなんて。


ひとまず王道の御伽噺といえば、シンデレラ、眠り姫、白雪姫あたりだが、小梅屋の大量のストックの中にある、それらに使えそうな着物を思い出す。


空色の青海波に、モノクロのヒールの帯があったから、シンデレラはクリア。


白地に林檎柄も見た気がするので、白雪姫もどうにかなりそうだ。


あと使えそうなものは、と考えを巡らせていると、寝返りを打った音々が肩に擦り寄って来た。


上掛けの中に潜り込んでいたせいで、再び薔薇色に染まった頬を起こさないようにそっと指の背で撫でる。


あと何回彼女の穏やかな眠りを見届けたら、自分の本願は成就するのだろう。


早くすべてを暴いて自分のものにしてしまいたいような、このままゆっくりと彼女が育つのを見守りたいような、何とも幸せな二律背反に苛まれる。


聖人君子を気取るにはいささか忍耐力が足りない気もするが、可愛い新妻のためだから仕方ない。


手ずから結んだ帯をほどいて、音々の柔らかい心も身体も抱き込むのは、もう少し先の事になりそうだ。





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