第16話 毬その2

小梅屋は閉店時間を過ぎているし、仕事を終えた音々は知晃の妻なのだから、なにも間違ってはいないのに、これらすべてが何もかも間違っているような感覚に陥ってしまう。


擽って、もう一度手のひらで頬の温度を確かめた知晃が、やっと手を遠ざけてくれた。


こんなことを毎日されたら本気で寿命が縮んでしまう。


それなのに、触れられた肌が甘く疼くのだから、恋というのはげに恐ろしい。


熱が移ったのか、自分の指先を凝視した知晃が、小さく呟く。


「あっつ・・・・・・おまえ、ずっとそんななの?」


「・・・へ?」


言われた言葉の意味が分からず、首を傾げれば。


「彼氏になんか言われるたび真っ赤になんの?」


飛んできた質問に本気でパニック状態に陥った。


「っは!?わ、わかりませんっ」


両頬を手で押さえてぶんぶん首を横に振る。


音々の着物の袖で毬が軽やかに撥ねた。


まるで揺さぶられた恋心を示すように。


「なんでわかんねぇんだよ」


「だ、だって居たことありませんもんっ!」


詰るように言い返せば。


「ふーん」


一つ頷いた知晃が、もう一度こちらに手を伸ばして来た。


反射的に避けた音々を見下ろして、彼が意地悪く目を細める。


強引に指を掴まれてそのまま引き下ろされてしまう。


それから無防備な頬をもう一度なぞられた。


確かめるように指の背が目尻まで触れていく。


彼の意図がさっぱり分からない。


からかっているのだろうと思うけれど、触れる指が優しいから振りほどくことが出来ない。


「よし」


なにがよしなのかさっぱり分からないが、何かに満足したらしい知晃が、音々の頬を解放した。


それから、再び調味料コーナーを探そうと視線を巡らせて。


「あれ?伊坂?」


陳列棚の前にしゃがんで商品を補充しているエプロン姿の男性が、こちらを見つめて目を丸くしている。


掛けられた声に、知晃は片手を上げて応えた。


「おお、上野、ちょうどよかった、探してたんだよ。醬油、どこ?」


「お前が買い物来るなんて珍しいな・・・しかも・・・え、なに、可愛い子連れて」


知晃の後ろで挙動不審になっている音々を見つけて、上野がにやっと揶揄するような顔になった。


「あ、これ嫁」


シレっと答えた知晃が、背中に居た音々の手を引いて前に立たせる。


「えっ嫁!?」


ここは知晃が子供のころからずっと住んでいる町なのだから、当然知り合いもいるわけで。


「い、いつも主人がお世話になっておりますっ」


しどろもどろになりながら、どうにか挨拶を口にして、これでいいのだろうかと恐る恐る背後を振り向けば、知晃の満面の笑みとぶつかった。


どうやら正解らしい。


西園寺以外の友人を紹介されたことの無かった音々なので、目の前のエプロン姿の上野が知晃のどういう知り合いかさっぱり分からない。


「は、初めてまして上野です・・・この店の店長で・・・伊坂とは同級生で・・・」


「あ、そうなんですね!」


なるほどと頷いた音々にお客様向けの笑顔を向けてから、上野が知晃に詰め寄った。


「てかお前結婚って!は!?いつ!?奥さん若すぎじゃね?やっぱあれか?どっかの呉服屋の?」


矢継ぎ早に繰り出された質問に鬱陶しそうに顔をしかめた知晃が、音々の指を絡め取って軽く揺らして見せた。


「ちげーわ。普通に恋愛結婚、な?」


「っは、はいっ」


反射的に頷いた音々をまじまじと見下ろして、上野が信じられないといった表情になった。


「はいって・・・・・・えええーなにその夢展開羨ましすぎるだろ・・・奥さん、こんな愛想ナシの男のどこがよかったの?」


「どこっ・・・・・・って・・・・・・あの・・・ぜんぶ・・・です」


行き場のない自分を拾ってくれた彼には恩義しかないし、小梅屋の店主ではない知晃の一面を知るたびどんどん好きになる。


けれど、具体的にどこが?と尋ねられても答えられない。


「ううわ・・・まじか・・・」


額を押さえて呻いた上野に向かって、知晃が開き直って見せた。


「どうだ?羨ましいだろ」


「本気で羨ましい・・・で、なに、こんな時間に夫婦そろってスーパーまで散歩?」


手ぇつないでほんとムカつくな、と心底嫌そうにこちらを見つめる上野の視線を真正面から受け止めて、知晃が口を開いた。


「嫁にこの辺案内がてらな。結婚祝い寄越せとは言わねぇから、値引きくらいしてくれよ」


がっくりと項垂れた上野が、調味料コーナーを指さして喚いた。


「ああいいよいいよ!醤油でもソースでも好きなだけ持ってけドロボウ!!」



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