第10話 薬玉その2
同じようにご近所さんからのお裾分けが後を絶たないので、伊坂家の冷蔵庫はいつもいっぱいだ。
音々がしていることと言えば、朝食の厚焼き玉子を焼いたり、お味噌汁やお吸い物を作ること位だ。
これで兼業主婦を名乗っても良いのだろうかと一抹の不安を覚えそうになる。
「でも、どれも可愛い柄ばっかりだから、二人の子供が生まれた時のために取って置いたら?」
「っへ!?」
いきなり振られたナイーブな話題に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
普通の新婚夫婦だったら、当然幸せ家族計画を立てるだろうし、家族を増やすべくせっせと子作りに勤しむのだろうが、音々と知晃は偽装夫婦である。
当然寝室は別だし、夕飯の後はそれぞれの部屋で過ごすので、間違いなんて起こりようがない。
生まれる可能性がゼロパーセントだと断言できる。
「あ、う、えっと・・・・・・」
ぷしゅうっと湯気が出そうなくらい真っ赤になった音々が、着物を掴んで俯く。
偽装妻として居候させて貰うにあたって、最低限の夫婦設定(馴れ初めから結婚までの経緯)については相談してあったけれど、子作り云々については一度も話題に出たことがなかった。
当然と言えば当然である。
だって予定が無いんだから。
けれど、世の中の常識に照らし合わせて考えれば、そういう話題が出るのは至極当然のこと。
ましてやこの町は若者よりもお年寄りのほうが多いのだ。
年頃の娘は早く良縁を見つけて嫁ぐのが幸せだという古い考えがいまだに根強く残っている。
せめて人並み程度の恋愛経験があったら、こういう時の受け答えに困らなかっただろう。
生まれてから今日までずっと男女交際を知らずに生きて来た自分が恨めしい。
思春期に両親を亡くしたこともあって、姉との二人暮らしを維持することに必死で、恋愛に気持ちを割く余裕なんて少しも無かったのだ。
クラスメイトたちは、楽しそうにデートや合コンの報告を聞かせてくれたり、SNSに彼氏とのツーショット写真を上げたりしていたけれど、それらすべては音々にとって別世界の出来事だった。
いつかは出来たらいいなぁ、と思いながら大学生になって、すぐに将来の事を考えなくてはいけなくなって、社会人になったら絶対に!と思っていたら、社会人デビューする機会を失ってしまった。
恋の神様は音々にあまり優しくなかった。
まるでこれまでのツンをなかった事にするかのように一気にデレた神様が、知晃の家という有難すぎる居場所を提供してくれたことには本当に感謝しているけれど、あくまでこれは仮初めの関係。
どれだけ思いを募らせても、この家の永住権は手に入れられない。
「どうする?気に入ったのがあるなら、避けとくか?」
顔色一つ変えることなくさらりと言ってのけた知晃が、先に女児用の着物に手を伸ばす。
薬玉や貝合わせの着物を順番に眺める彼の頬にはわずかの赤みもさしていない。
一人で舞い上がってうろたえてしまった自分が情けない。
「・・・・・・ま、まだそんなことまでは・・・っ」
「あら、そんなこと言ってたら意外とすぐに出来たりするのよぅ。うちの娘がそうだもの。子供はまだいいとか言いながら、一年目で妊娠して、翌年には二人目も出来てねぇ・・・」
「おまえに似た女の子なら、これとか可愛いけどな」
鶯色の地に鮮やかな薬玉が描かれた着物は華やかで可愛らしい。
まるで未来が見えているかのように口にする知晃が憎らしくてしょうがない。
これなら帯は桜色が可愛いと松本のおばあちゃんと本気で悩み始めた知晃を必死に睨みつける。
ここで過ごすようになってから、何度こうやって心臓を揺さぶられただろう。
冷静そのものの偽物の旦那様に。
「っ、気が早いです」
「そうか?」
音々の険吞な眼差しを悠然と受け流して、知晃がけろっと首を傾げる。
何とも温度差のある夫婦を前に、松本のおばあちゃんがクスクスと笑み崩れた。
「音々ちゃんまだまだ若いし、焦る年齢でもないわよねえ・・・子作りはちゃんと夫婦でよく相談なさいね?」
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