第11話 桜その1

「それで?きみはいつから知晃と?」


値踏みするような視線と苛立ちを隠そうともしない強い口調で尋ねられて、音々はお盆を胸に抱えたまま言葉に迷った。


カウンター横の小さな椅子は、その昔知晃の母親が店主だった頃常連客との井戸端会議に設置されたものらしく、知晃の従兄と名乗る男がやって来るまでは信玄袋が飾られていた。


知晃は昼過ぎから西園寺と一緒に出掛けており、自宅時間は未定になっている。


大慌てで用意した玉露に口を付けることもなく返事を待つ男は、まず間違いなく知晃に偽装結婚を決意させた最大要因だろう。


入籍こそしていないものの、音々の住民票はすでに伊坂家に移してあるし、事実婚の体は装ってある。


小梅屋に知晃を尋ねてやって来た男は、カウンターの奥で店番をしている音々を見つけてアルバイトか?と尋ねてきた。


違いますと答えると怪訝な顔になった彼は、あいつは恋人に店番を押し付けるのかと呆れた口調になった。


『私は妻の音々です』


咄嗟に言い返したことは、後悔していない。


だってそのために彼は音々をこの家に招き入れたのだから。


「こちらで生活を始めたのはひと月ちょっと前です・・・」


「ひと月ねぇ・・・今流行りの交際ゼロ日婚か」


「・・・私は、ずっとこのお店の常連で・・・知晃さんにもよくして頂いてました・・・春まで私が大学に通っていたので、卒業を待ってこちらに・・・」


「っは!?この前まで学生!?・・・まったく・・・呆れて言葉も出ないな・・・」


呻くように額を押さえた男が、どおりで歳の合う相手と纏まらんわけだ、とぼやいた。


「で、きみはなに?生活に困って9歳も年上のオッサンに擦り寄ったの?あいつの懐事情はどこで知ったの?」


自分と知晃の年齢の差をいま初めて知った。


からかうようなスキンシップしかされないのは、彼に全くその気がないせいだ。


31歳の大人の男性からすれば、23歳なんておこちゃまにしか見えないだろう。


それでも、いまの音々は知晃の仮初めの妻だ。


ここでひるんで黙り込むわけには行かない。


「・・・・・・・・・年齢は関係ないと思います。私は・・・知晃さんがいくつだとか関係なく惹かれましたし・・・・・・私は・・・ずっと彼が好きだったので・・・結婚して貰えて嬉しかったです」


偽装でも、形だけでも、仮初めの妻でも。


初めてときめいた異性に、嘘でも、奥さんになって欲しいと言われたのだから、嬉しくないわけがない。


最初は一言二言しか会話の無かった彼が、三度目に店を訪れた時初めて、今日はどちらから?と尋ねてくれた。


自分に興味を持ってくれたことが物凄く嬉しくなって、ここまで片道二時間かけて在来線を乗り継いで来たことを早口で伝えると、心底驚いた顔をされて、ほかに何もないよこの町、と困ったように笑われた。


このお店のファンになったので、ここに来るのが目的でそのためにバイトをしていること、他のお店にはないデザインの着物が多くて毎回来店が楽しみだと必死に訴えた音々の話をちゃんと目を合わせて聞いてくれた彼は、これからもご贔屓に、と笑顔を零した。


帰り道、何度もお店のほうを振り返っては、また会いたいな、と思った。


だから本当はこんな形で再会したくはなかったのだ。


ちゃんと立派な会社員になって沢山好きな着物を買えるようになりましたと胸を張って会いに来たかった。


彼の笑顔が常連客に対する愛想笑いでもよかった。


一方通行でも、構わなかったのだ。


まさかこんなところで、知晃以外の人間に自分の気持ちを吐露する事になるなんて思いもしなかった。


生活に困ってなんかいない、愛情で結ばれたれっきとした夫婦だと豪語出来たらどんなにいいだろう。


実際の音々は、生活に困って行き場を無くして、知晃を頼ってここに居させてもらっているのだ。


音々の窮状を哀れんだ彼が、手を差し伸べてくれたことも、ちゃんと理解している。


知晃の生活ぶりを見ていれば、彼がお金に困っていないことはすぐに理解できた。


が、それは音々が知るべき情報ではない。


知晃の従兄と名乗る男にしてみれば、彼が気まぐれにお金に困っている若い女に手を出したと思っているのだろう。


とにかく目の前の音々の何もかもが気に入らない様子の男を前に、はっきりと言い返す言葉を持てない自分がもどかしい。


こんなことなら、ダミーの結婚指輪の一つでも用意して貰えばよかった。


空っぽの指と心がひどく心許ない。


二人の関係を証明するものはどこにもないのだ。


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