第12話 桜その2
「・・・・・・知晃さんは、あまり言葉数は多くないし・・・朝寝坊だけど・・・・・・私の話はちゃんと聞いてくれるし、時々は朝ご飯も作ってくれるし・・・ちゃんと、大事にしてくれています。私は・・・一緒に過ごせて幸せだし・・・愛情を・・・感じてるし・・・彼の持っている何かじゃなくて・・・知晃さん自身を好きになったので、お嫁さんにしてもらえて本当に幸せなんです。だから、よく知らないあなたが何て言っても別れませんし・・・知晃さんが私を必要としなくなるまでは、絶対側を離れません・・・ほかの誰かに、奥さんの立場を譲ったりもしません」
今の自分に言える精一杯の気持ちをぶちまけると、疲れたような顔をした男が面倒くさそうに眼鏡のブリッジを押し上げた。
「そういう綺麗ごとはいいから、実際問題いくらあればいいの?知晃はね、うちの大事な家族なんだよ。きみみたいな若いだけの女の子じゃ釣り合い取れないのわかるよね?伊坂呉服の名前くらい、聞いたことあるでしょ?」
「い、いくら積まれてもぜ、絶対に別れません!」
平々凡々に生きて来て、こんなドラマみたいな台詞を口にする日が来るだなんて。
抱えたお盆をぎゅうぎゅう命綱のように握りしめて大声で叫べば、男が表情を険しくした。
「・・・・・・もしかして、きみ、妊娠してる?」
「っは!?」
とんでもない質問が飛び出して、慌ててお腹を押さえる。
それが逆に信憑性を生んでしまったようだった。
男が顔色を変えてこちらを探るように見つめてくる。
心労で暫く落ちていた食欲が知晃と一緒に暮らし始めて一気に戻って来て、ちょっと丸みを帯びた事は事実だ。
着物は体型が出ずらいので、多少ふっくらしてもわかりにくいのは助かるが、その分自分には甘くなる。
「もしそういうことなら猶更きちんと話し合いが必要だから・・・・・・参ったな・・・まさか子供までいるん何て・・・」
妊娠どころか、まともなキスすらしていない清らかすぎる関係の二人である。
あくまで偽装結婚の二人なので、当然と言えば当然なのだが。
「ち、ちがっ・・・・・・」
思い切り動揺して必死に首を横に振るも、ますます怪しむような視線を向けられる。
とにかく今日はお引き取り下さい、で押し通そうかと迷い始めた途端。
「なに人の嫁にセクハラ発言してんだ」
小梅屋の入り口から顔を覗かせた灰色と藍色を混ぜ合わせたような
真っ赤になって立ち尽くす音々の前までやって来ると、困惑顔を覗き込んでから溜息を一つ。
「こんなに震えて・・・・・・可哀想に。人が居ないうちに入り込んで好き勝手言ってんじゃねぇ」
吐き捨てるように言い放った彼が、手にしていた
知晃の愛用している柔らかいウッディ系の香水の香りがふわりと広がった。
「子供は出来てない。しばらくはその予定もない。大学卒業まで待ったんだから二人の時間があってもいいだろ?やっと一緒に暮らせたんだし」
嬉しそうな表情で抱き寄せた音々の肩を撫でた彼の唇がつむじに落ちた。
「知晃・・・・・・まさかお前本気でその子と・・・?」
「本当はすぐにでも挙式して籍を入れたとこだけど、音々の家族がいま海外なんだ。仕事が落ち着いて長期休暇で戻ってくるのは半年先だから、それを首を長くして待ってる。な?だからそれまでは子供もお預け。ちゃんと気に入ったウェディングドレス着せてやりたいし。俺は大人だからちゃんと我慢してやる」
前半は目の前の従兄に、後半は新妻に向けた台詞である。
突然の来訪者に一度もひるむことなく結婚したばかりの音々を心底愛しているような眼差しと言葉が降ってくる。
「~~~っ」
いまこそいざという時で、知晃が側に居るのだからここぞとばかりにイチャイチャして仮初めの妻の威力を発揮しなくてはならないはずなのに、音々に出来た事は必死に頷くことだけだった。
見つめ返して微笑むくらい出来なくては、ここに置いて貰っている意味がないと思うのに、視線を合わせた途端、居た堪れなくなって逸らしてしまう。
それを追いかけてきた知晃が、頬を包み込んで額にキスが落ちた。
「お前がどうしてもって強請るなら・・・・・・すぐに子作りすんのもやぶさかじゃねぇけど・・・?音々、どうしたい?お前に任せるよ」
とろりとキャラメリゼのようなほろ苦い笑顔と共に告げられて、いよいよキャパシティーオーバーがやって来た。
後ろ足を引いて逃げようとした音々の帯の下に腕を回した知晃が、慣れた様子で腕の中に閉じ込めてくる。
「こら、可愛い顔で期待させるな」
窘めるような口調と、頬へのキスにひゃあ、と思わず悲鳴を上げてしまった。
慌てて目の前の肩に顔を伏せれば、後ろ頭を撫でた手のひらが項を擽って来て、また悲鳴を上げてしまう。
嬉しそうに耳たぶに唇を寄せた知晃が、耳殻を軽く吸ってそのまま耳たぶに吸い付いてきた。
もう体のどこにも力が入らなくて、溺れないように必死に彼の腕にすがりつく。
待ち構えていたように背中を抱き寄せる腕に力が籠った。
草履のつま先が地面を離れて彼の腕の中に囚われる。
「よし、んじゃ、しようか」
満面の笑みで宣言した知晃が、目を見開いた音々の目尻に唇を寄せた。
椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった男が顔を真っ赤にして二人の前を突っ切って行く。
「わ、私は帰る!この事は父さんにも報告しておくからな!」
「この上なく幸せそうだったって報告して、もう余計なことさせないでくれよ」
立ち去る従兄に見向きもせずに腕の中の音々に頬ずりした知晃が勝ち誇ったように言った。
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