第26話 矢絣その2
十分すぎるほどの幸せを享受していると思うのに、さらに仲良くと言われればきゅっと身体に力が籠った。
それに気づいた知晃が、優しく背中を撫でてそっと耳元に唇を寄せる。
「俺の嫁だって胸張れるように・・・もっと仲良くしようか?」
囁き声の誘惑は、とろりと甘くてほろ苦い。
「じゅ、十分良くして頂いてますからっ・・・・・・」
お願いだから甘いだけの蜂蜜で胸を満たさないで。
こういうときの駆け引きなんて何もわからない。
からかっているのか本気なのか、その区別が出来るほどの知識も経験もない。
それを知っていて知晃がこうして仕掛けてくるのは、音々の反応を楽しみたいからだ。
唇が降れるか触れないかの距離で見つめ合ったまま、震える声で呼びかけた。
「・・・・・・ほんとに・・・あの・・・旦那様・・・」
破裂しそうな心音を制御し切れなくなって、必死に目の前の赤茶を濃くした
淡い緑の白百合色の着物の袖で蝶々がひらひらと揺れた。
「・・・・・・・・・お前、名前。呼ばないな」
「・・・・・・え?」
「あいつの前では知晃さん、って呼んでたのに・・・もういいだろ、呼べよ、名前」
「は、はい」
「はい、じゃなくて・・・・・・名前」
自室にいる彼に呼びかけることには慣れたのだが、こうして面と向かって、それも視線を合わせたまま知晃の名前を呼ぶのはやっぱりかなり恥ずかしい。
自分が張った予防線を飛び越えて彼の胸に飛び込んだのは自分のくせに。
「・・・・・・ち、知晃さん」
意気地なしの心を封じ込めて、小さく呼びかければ。
「・・・・・・うん」
「っふ・・・っ・・・ぁ」
笑った彼がぱくりと唇を食んできた。
息を吐いたところを塞がれて、怖気づく暇もなく舌をからめとられる。
告白の直後に彼がくれたキスは、触れあうだけの優しいまさに貴公然としたキスだった。
けれど、二度目のキスで、最初のそれはほんとうに挨拶代わりのキスだったのだと思い知らされた。
息継ぎを教えながら何度も繰り返された深いキスは、身体の芯をグズグズに溶かしてしまうくらい甘ったるくて濃密だった。
震える唇を味わうように舌先で舐めて、涙目の音々の眦を優しく撫でてからまた塞がれて。
気づいた時には彼の膝の上にいて、緩んだ着物の裾から忍び込んできた手のひらに固まったら彼が笑ってごめんと呟いた。
謝られた理由が分からなくて、経験不足の自分が悔しくて、けれどもっとと強請れるほど強気には出られなくて、俯いた音々の頬を優しく唇で撫でた知晃は、焦ってないからとちゃんと待つよ、と言葉にしてくれた。
そして、実際あれ以降きわどい触れ合いは一度もない。
触れるキスは甘ったるくて蕩けそうだけれど、音々のすべてを貪りつくすようなキスは、あの夜の一度だけ。
「・・・音々」
肩にすがる音々の手のひらを捕まえた知晃が、袖から伸びた白い腕に唇を寄せる。
ぴくりと震えたけれど、彼は唇を滑らせることをやめなかった。
「早く慣れような?」
上目遣いにこちらを見上げられて、息が詰まる。
その眼差しには、蝶々だったら一目散に飛んで逃げてしまいそうな、凄まじい色気があった。
こんな大人の彼がどうして自分なんかに。
考えてもしょうがないことが頭を過った途端、強めに上唇を吸われた。
「いま余計なこと考えただろ」
「え、な・・・んっ・・・んぅ・・・っ」
もしかして知晃は心が読めるのだろうか。
目を見開く音々を抱きしめた彼が、唇の隙間を舌先で擽ってくる。
彼の舌の温度を心地よいと思えるほどに懐柔されている心と身体に驚く。
違和感なく内側の柔らかい粘膜を舐めて離れたそれを追いかければ、眉間にリップ音付きのキスが落ちた。
甘やかすように髪を撫でられてまたじんわり思考が緩む。
「勝手に一人で不安になるなよ。俺といるときは俺のことだけ考えとけ」
「・・・・・・そ、れ・・・は・・・む・・・」
自分のなにが彼をそんなに惹きつけて止まないのか、さっぱりわからない。
だって綺麗で賢い女性はほかにいくらだっている。
下げた視線を掬い上げるようにこちらを覗き込んだ知晃が、子供にするように音々の身体を抱き上げた。
そのままスタスタと母屋に向かって歩きだす。
「無理じゃないって思えるまで、やっぱりこのまま仲良くしようか?」
「~~っ」
「嫌なことはちゃんと言わないと。俺の好きにするよ?」
窘めるような柔らかい響きに、ぎゅっと知晃の首に腕を回してすがりつく。
この腕に抱かれたら、愛されている理由が少しでも分かるのだろうか。
「嫌じゃ・・・ない」
消え入りそうな了承への返事は、耳たぶへの甘噛みで返って来た。
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