第27話 七宝その1
「あの・・・・・・知晃さん」
がちがちに固まった音々の肩を撫でる手のひらは慈愛に満ちている。
降ってくる眼差しの柔らかさと甘ったるさは、確実に今までで一番なのに、少しも呼吸が落ち着かない。
時折髪を指に絡ませては解く仕草を繰り返す彼は、それ以上先に進もうとはしなかった。
音々が緊張を解くのを待っているのだ。
恐らく何時間経っても鼓動も強張りもこのままだと思うのだが、それを進言する余裕すらない。
「・・・ん?」
「・・・・・・・・・」
静かな囁きの後、続きを待つ彼に言うべき言葉はいくつもあるのに、結局何も出てこなくてそのまま黙り込んで見つめあう事5秒。
目尻を下げて微笑んだ彼が、優しい仕草で音々の輪郭を撫でて前髪をかきあげた。
近づいてきた端正な面立ちにきゅっと力いっぱい目を閉じれば、額にふわりと羽のようなキスが落ちた。
「お姉さんとちゃんと話せて良かったな」
数時間前の電話のことを急に持ち出した知晃に、反射的に目を開ける。
「あ、ありがとうございました」
「いやお礼言うところじゃねぇだろ」
「でも・・・先にお姉ちゃんに挨拶しててくれたなんて・・・・・・感動しました」
仮初めの妻を返上して、本物の妻になることが決定した後、今後の諸々の手続きについてさくさく説明を始めた知晃が、タイ在住の姉夫婦にはすでにコンタクトをとって結婚の了承を貰っていると口にした時は唖然とした。
申し訳なさそうに、音々が伊坂家にやって来てすぐ西園寺に頼んで身辺調査を行ったこと、その際にタイの姉夫婦の連絡先も調べており、音々と同居することになった経緯を説明していたことを告げた知晃は、最初は叔父一家が手配した女性ではないかという疑いが捨てきれなかったと零した。
お見合いに辟易していたタイミングで、家を失った常連客の妙齢の女性が目の前に現れるなんて仕組まれたとしか思えなかったとぼやいた知晃の考えは尤もである。
けれど、小梅屋の店員をさせて欲しいと頭を下げた音々を見た瞬間、そんな疑いはすぐに掻き消えてしまったらしい。
西園寺からの報告を待って、姉夫婦に音々を預からせて欲しいと頭を下げた時から、偽装結婚のその先を見据えていたというから驚きだ。
それを告げられてから、仮初めの妻として過ごした数か月を思い出すと、知晃から向けられた視線も仕草も、贈られた言葉も、全部本物の音々に向けたアプローチだったのだと気づいて、嬉しいやら恥ずかしいやらで大混乱した。
「普通だろ・・・他人の家で妹が住み込みで働いてるってどう考えても常識的じゃねぇし・・・それさせたの俺だけど」
「でも、置いていただけてありがたかったです・・・知晃さんが、家に招いてくれなかったら・・・路頭に迷ってました」
貯金は底をついていたし、ネットカフェでの生活は限界に来ていた。
あの時、わずかな手荷物の中に母親の肩身の振袖が入っていて本当に良かった。
優美な牡丹が描かれた振袖は、母親が祖母から贈られた晴れ着だった。
姉妹揃って成人式の時にはそれを着て写真を撮った。
手放すのは惜しいけれど、やっと念願の新生活を始めたばかりの姉夫婦に迷惑をかけるよりはと、駄目もとで小梅屋を尋ねたのだ。
きっと、運命だったんだと思う。
「なら永久就職先としてはうちは及第点?」
「・・・・・・百点満点ですよ」
「そっか・・・・・・色打掛は、音々の好きな柄を用意して貰うから、遠慮せずに強請れよ。半年あれば気に入るのが見つかるだろ」
叔父一家に正式な結婚の挨拶の後、半年後の姉夫婦の一時帰国を待って挙式を行うことを決めた知晃は、暇さえあれば音々を伊坂呉服に連れていって、晴れ着の選定を行っている。
西園寺も、挙式が終わるまでは音々ちゃん優先で、と気を遣ってくれており、これまでほど家にはやって来なくなった。
初対面の時にはあれほど威圧的だった知晃の従兄も、結婚して落ち着いてくれるならそれに越したことはないという父親の意見に賛同して、最近は積極的に着物選びに協力してくれている。
知晃いわく、叔父一家も知晃の結婚でようやく胸のつかえが取れたのだそうだ。
ずっと庶子として日陰の存在で生きて、伊坂の名前で表舞台に顔を出さないまま亡くなってしまった異母妹とその子供のことを、叔父なりに気にかけていたんだと思う、と呟いた知晃の表情は至極穏やかで、そこには怒りや憎しみはかけらも見当たらなかった。
西園寺が婚礼祝いだと言って、伊坂呉服にホテル【レガロマーレ】のウェディングサロンとの契約仲介を買って出てくれたおかげで、傾いていた経営もどうにか持ち直したらしく、そのせいもあって知晃の伊坂での立場はかなり向上したらしい。
本人は今後も伊坂呉服とは積極的に関わるつもりがないらしく、今まで通り小梅屋の店主をしつつ、西園寺の相談役を続けるつもりのようだ。
西園寺がメディカルセンター設立のために購入した空き地は、知晃が母親から譲り受けた伊坂の土地らしく、結構な額が入ったため、大富豪のような生活を送らなければ夫婦で人生を二回分は楽しめる貯蓄があるので、小梅屋は今まで通り趣味の店として続けていくそうだ。
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