第25話 矢絣その1

「あの・・・だ、旦那様・・・お、お夕飯の・・・準備を・・・そろそろ」


店の引き戸を閉めて施錠もして、さあこれから母屋に戻って夕飯の準備だと意気込んだ矢先、伸びてきた腕に囚われてしまった。


今日はもう終わりにしろと呼びかけてきた彼は、さっさと金庫を定位置に片づけて空っぽになった両腕を新妻に伸ばして来たのだ。


音々が抗えないことを、彼はもう嫌というほど理解している。


間接照明だけが残された薄暗い店内に、衣擦れの音が響く。


さっきまで少し先の公園ではしゃぐ子供たちの声や、車の走行音が聞こえていたのに、今は吐く息の響きさえ鼓膜が拾い上げそうなくらい静かだ。


「んー・・・夕飯なぁ・・・・・・たまには食べに行こうか」


抱き寄せた背中を撫でる手のひらはそのままに、そんな提案をしてきた知晃に、咄嗟に冷蔵庫の中身を思い浮かべてしまうのは習い性のようなものだ。


「え、でも・・・・・・松本のおばあちゃんが差し入れしてくださったブリがありますし」


「明日に回せばいいだろ」


「あ・・・はい」


片田舎のこの町には徒歩圏内にウエノマートという地元民御用達の小さなスーパーと、駅前にコンビニがあるだけで、車移動しなくては大型量販店には行けない。


その代わりお裾分け文化が根付いており、多めに買ったから、貰ったから、とご近所さんに野菜や魚を配るのが習慣になっていた。


松本のおばあちゃんは、週に一回お店に顔を見せにやって来る常連客で、知晃が結婚したことを誰より喜んでくれた一人でもある。


お嫁さんが来てくれたんなら、とこれまで以上にあれこれ差し入れを届けてくれるようになった。


折角綺麗なブリを頂いたので、早めに美味しく頂戴したい。


音々の告白以降、旦那様からのスキンシップが一気に増えた。


仮初めの妻はおしまいだから、もう遠慮はしない、と最初に宣言した通り、知晃は一気に音々との距離を詰めてきて、初心な恋人の限界値を図っている。


望んでそうなったわけではないが、まっさらの状態で偽装結婚に挑んだことを彼は気づいていたようだ。


これもやっぱり経験値の差なんだろう。


仮初めの妻として、彼のぬくもりや匂いに慣れなくてはと思う反面、どうせ離れることになるのいだから、これを覚えておきたくはない、と二律背反の気持ちに揺れていたあの頃が嘘のように心は満たされている。


音々が不安に思う暇を与えないように知晃が過度なスキンシップを取ってくるのだ。


触れた唇から伝わる熱と愛情が、思考を緩ませて、強張りをほどいていく。


抱きしめられた腕の中で音々が息を吐けば、知晃が褒めるように後ろ頭を撫でて額にご褒美のようなキスをくれる。


知晃の熱を覚えさせるような情熱的なキスは時に心をざわつかせて、はしたない気持ちを抱かせるけれど、一気に階段を駆け上がるような触れ方をされたことは、まだ、ない。


彼は音々が、そうなることを待っているのだ。


心から自分を欲しがって腕を伸ばしてくる時を。


抱きしめ返していいものか分からずにおずおずと肩に頭を預ければ。


「というか、お前は空気を読め」


呆れたような声と共にこめかみにキスが落ちた。


そのまま唇耳たぶにずらされて、ぱくりと食まれる。


「ひゃあっ・・・く、うきって・・・」


「夫婦なんだから、ちょっとは慣れろよ。次にあいつが突撃して来たら俺の出る幕が無いくらい盛大に惚気てみせろ。もう本物なんだからな」


楽しそうに呟いた彼が、頬を覆う横髪を掬い上げて赤くなった頬にキスを落とす。


地肌を擽った指の腹がそのまま耳の後ろをするりと撫でるから、ぎゅうっと首をすくめた。


子猫をあやすように撫でたかと思ったら、気まぐれにいたずらを仕掛けてくるから困る。


「む、無理ですぅ・・・・・・だって耐性ないんですもん」


「ああ、無さそうだもんな。だから、お前のペースに合わせてるだろ」


「~~っ」


「とりあえず来たアレに次になんか言われたら、夫婦生活は円満で子作りも順調って言い返してやれ」


「・・・・・・い、言えませんよっ」


せいぜいキス止まりの二人の関係で、子作りだなんてパワーワードが出せるわけがない。


知識でしか知らないアレコレを彼とするだなんて、想像しただけで倒れてしまいそうだ。


学生時代女友達の間で大流行したちょっとエッチな恋愛漫画ですら直視できないレベルだったのに。


「なんでだよ?こんなに仲良くしてるのに?」


抱きこんだ後ろ頭を撫でて、頬寄せた知晃が腕の力を強くしてくる。


苦しくないぎりぎりのラインでの抱擁は、彼が恋愛経験者であることを雄弁に語っていた。


この腕の中に閉じ込められて全身で愛される女性は最高に幸せだろう。


そんな風にただ憧れを募らせていたあの頃とは違う。


知晃は真っ直ぐ音々に思いを寄せてくれているし、こうして大切に扱ってくれている。


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