第24話 蝶その2

ルームウェアのひざ下丈のワンピース一枚の音々を確かめた知晃が顔を顰めた。


部屋の隅に置いてあるひざ掛けを取ろうとした彼の手を引いて、引き留めた。


「・・・・・・・・・私、やっぱりこの家を出ます」


もっと声が震えるかと思ったけれど、ちゃんとはっきりと伝えることが出来た。


「は?何言って・・・」


「し、仕事は、もう一回西園寺さんにお願いして、何とか家政婦紹介所で働かせて貰えるように・・・」


「・・・・・・なんで?」


彼の手をつかんだ手を、上からやんわりと包み込まれて、目の前に膝をついた知晃が視線を合わせてくる。


「やっぱり・・・こんなの良くないと・・・思うから」


「俺はいつまでも居ていいって言ったけど?」


「でも、旦那様だっていつかは・・・誰かと・・・・・・・・・」


結婚しますよね、という台詞だけがどうしても出てこない。


俯いて唇を震わせる音々の頭を大きな手のひらが優しく撫でた。


慰めるような手つきも、いまはただただ苦しいだけ。


「ここに居るのが嫌になった?」


「・・・・・・・・・」


「お見合いのことなら、お前が責任感じる必要ないって言っただろ?」


「・・・・・・違います・・・そうじゃ・・・なくって」


「・・・・・・じゃあ、俺のこと嫌いになった?」


握られた指先に強く力込められる。


多分どれだけ頑張っても、きっと一生嫌いにはなれない。


だから、傷が浅いうちにここを離れたいのだ。


「・・・・・・・・・・・・・・・辛いんです」


吐露した心情を慰めるように、静かな声が返って来る。


「一緒に居るのが?」


首を横に振って吐く息と共に胸の一番奥にある言葉を声にした。


「・・・・・・・・・好きって言えないのが」


彼が今日一緒に居た女性とどんな会話をしてどんな風に笑いあったのか、知りたくてしょうがない。


でも、そこに踏み込む権利を、音々は持っていない。


涙交じりの告白に、知晃は音々の顔を真っ直ぐ見つめたまま、答えた。


「・・・・・・・・・・・・そうか・・・分かった」


大人な彼は、少しも動揺する事は無かった。


静かに頷いて目を伏せた知晃が、音々の手をそっと解いた。


ああ、こういう振られ方もあるんだな、と頭の片隅でぼんやりと思う。


「じゃあ、仮初めの妻は、やめようか」


「・・・・・・・・・はい」


今度こそこれで本当に終わりなんだと、込み上げてくる嗚咽を堪えて息を吐く。


離れて行った手のひらが、するりと後ろ頭を抱き寄せて彼が顔を近づけてくる。


あれ?と思った時には目の前に唇があった。


「・・・本物にしてやる」


「・・・・・・?」


本物の意味が分からず首を傾げようとする音々の動きを封じるように、引き寄せられた。


「・・・っ」


震える唇が、渇いた彼のそれと重なって、離れる。


「え・・・・・・?」


振られた相手にキスされる現実が、さっぱり理解できない。


ぽかんと目を見開く音々の項を擽った知晃が、もう一度を唇を啄んできた。


今度は唇の表面をこすり合わせて、啄まれる。


「好きだよ」


「え・・・・・・?っ・・・・・・」


鼓膜を揺らした知晃の声が幻聴に思えて間抜けな声を出せば、すぐに唇が塞がれて、今度は上唇が吸われた。


ちゅっと響いたリップ音に冷えた身体が一気に熱を取り戻す。


「なんだよ、嬉しくないの?」


「え・・・でも・・・あの・・・だ・・・旦那様」


「知晃。仮初めの妻はやめるんだから、いい加減名前で呼んでくれ」


「ほ・・・本気・・・?お、お見合いは・・・・・・?」


「三回食事をするって約束だったから・・・今日で終わり。もうしない。お前がほんとに嫁に来るなら、二度とする必要もないよな?」


「・・・・・・ほんとに・・・・・・?」


「ほんとだよ」


目元を和ませて甘ったるい視線を向けてきた知晃が、額にキスを落とした。


すぐに離れずに唇をこめかみまで滑らせて熱を分け与えてくる。


スーツを脱いだ彼からするのは、いつもの知晃の香りだけ。


それでも、さっき嗅いだ音々の知らない女性の香りは、簡単にはなくならない。


「・・・・・・・・・すごく・・・いい匂いのする人でしたね・・・」


「・・・・・・覚えてねぇよ・・・・・・俺にはお前のほうがいい匂いなんだけど・・・」


抱き込んだ腕の中を見下ろして、知晃がすうっと目を細める。


首筋に鼻先を擦り付けて遠慮なしに息を吸われて、気恥ずかしさでじたばたともがけば。


「暴れてもいいけど、もう遠慮しないからな」


倍の力で抱きしめられて、首筋に唇が触れた。


「っきゃあ!」


「・・・音々・・・・・・これくらいで悲鳴上げてたら、この先どうすんだ?」


耳元で響く意地悪な声に、ぎゅうっと目を閉じて目の前の肩に顔をうずめる。


「・・・・・・っ」


真っ赤になった耳たぶにキスをして、知晃が楽しそうに言った。


「するんだよな?俺とほんとの夫婦生活」

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