第23話 蝶その1

「あー・・・そうだ、俺、お見合いするから」


夕食の後、食器洗いを終えて入浴まで休憩しようと居間に戻ったら、先にお風呂を済ませて戻って来た知晃が、音々を手招きしてそんな報告をしてきた。


「・・・・・・・・・え」


音々は、煩わしいお見合い避けのために知晃の仮初めの妻を演じて、ここに置いて貰っているのだ。


先日知晃の従兄が店にやって来た時も、だからこそ全力で知晃の妻として振る舞った。


それなのに、知晃はお見合いすると、いま告げてきた。


これでは、音々がこの家に居る意味が無い。


知晃と音々のイチャイチャぶりを目の当たりにして、彼の叔父一家は当分お見合い話は持ってこないだろうと踏んでいたのに、まだ諦めきれていなかったのだろうか。


責任を感じて表情を険しくした音々に向かって、知晃が慌てて手を振ってくる。


「あー違うから、お前のせいじゃない。別ンとこ・・・というか、緒巳のほうからちょっと断り切れない話が回って来て・・・だから、責任感じるなよ」


「・・・・・・あ・・・はい・・・」


「まあ、上手くやるから・・・心配すんな」


湯上りの温かい手のひらが、ぽんぽんと頭を叩いて離れて行く。


「あの・・・旦那様!」


「んー?」


「私で・・・その、お役に立てることがあれば・・・なんでも・・・」


偽装結婚の相手を探していた知晃と、家を失くした音々。


二人の利害が一致したから成立したこの同居生活は、音々が仕事を見つけて家を出るか、知晃がだれかと恋をしたら終了になる。


音々が伊坂家に居続けられているのは、知晃に決まった相手がおらず、音々に小梅屋の店員という仕事を与えてくれているからだ。


「・・・・・・あのな・・・頼むから、そういうことを簡単に言うな」


真顔になった知晃が両肩を押さえて真剣な口調で向きなおって来た。


今の自分が差し出せる精一杯の誠意のつもりだった。


決して思い付きや軽はずみではない。


「簡単じゃありません!私なりにいっぱい考えて・・・なにか・・・力に・・・」


「・・・余計危なっかしいわ・・・俺がとんでもないこと言い出したらどうすんだよ」


「・・・・・・旦那様は、私に出来ないことは言いませんもん・・・」


それもう一緒に過ごした二か月ちょっとで十分よくわかっている事だ。


音々の出来る事をできる範囲ですればいいと、基本見守る姿勢を崩さない彼は、何かを音々に押し付けた事も無ければ、強要したこともない。


唯一口を挟んだのは、西園寺から仕事を紹介されそうになった時だけだ。


自分がどれくらい知晃に信頼を寄せていて、同じように自分も信頼されたいと思っているか、上手く言葉に出来ないことがもどかしい。


突き詰めて行けば、好きという単純明快な答えに結びつくから、それを避けようとするとどうしてもうまい言葉が見つからないのだ。


音々が、自分の気持ちを言葉にするときは、小梅屋を去る時である。


「・・・・・・その信頼は・・・・・・・・・うん・・・・・・ありがとな。俺も、お前の信頼を裏切らないようにするよ」


「・・・信じてますから、大丈夫です」


「っ・・・おっまえは・・・時々俺を試すよな!?」


途方に暮れた様子で天井を仰いだ知晃が、息を吐いてからもう一度とこちらに向き直った。


「とにかく、俺の嫁で居てくれるだけでいい。それで十分だ」


これ以上の問答は不要だと言外に告げられてしまえば、引き下がるよりほかにない。


知晃がうまくやる、と言ったのだからお見合いも音々が来る前のように捌いてくるのだろう。


信じて待つよりほかにない。


「・・・・・・わかりました」


こうして頷いた時は、お見合いはあっさりと片付いて、終わったよと彼が報告してくれると思っていたのだ。


ところが、都心のホテルの茶房で顔合わせをした後も、知晃はお見合い相手との関係を断つことがなかった。


そのあと二週続けて会食という名の食事デートに出かけていく彼を見送った後、音々はいよいよその時が来たのだと、悟った。







・・・・・・・・・・・






「・・・・・・あれ、起きてたのか?」


居間に続く引き戸を開けたところで、長椅子の上で膝を抱える音々を見つけた知晃が目を丸くした。


今日も遅くなるから先に寝てろと言われたけれど、どうしても眠る気になれずに見る気の起きないテレビをぼんやり眺めていたら23時を過ぎていた。


ここ最近、会食の時にはいつもスーツを着て出かけていく知晃は、音々の知っている小梅屋の店主とはまるで別人で、ますます彼が遠い存在に思えてくる。


「お食事、美味しかったですか?」


「懐石だったけど、ほぼ接待みたいなもんだからな。家でお前と二人で飯食ってるほうが楽だよ」


「・・・・・・スーツはお相手の好みですか?」


「ん?一応な」


大した事じゃないと肩をすくめた彼が、ネクタイを緩めてスーツを脱いだ。


長椅子の背に落ちたそれを手に取った瞬間、見知らぬ香りがふわりと広がった。


音々の知らない、芳醇な大人の女性の香りだ。


お見合い相手が付けている香水の匂いなんだろう。


彼に残せる残り香なんて、音々にはない。


じんわりと沁み出した寂しさが、すぐに濁ってどす黒い感情の渦になる。


こうなるって分かっていたから、名前で呼ばなかったのに。


「・・・・・・・・・あの・・・・・・旦那様」


「んー?どうした・・・つか、お前風呂入ったの?上になんか着とけよ。湯冷めするだろ」


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