第22話 菖蒲その2
最初にこの着物を見つけた瞬間、薔薇の帯を探したのはベルになりたかったから。
音々の考えを見透かしたように微笑んだ彼に、こくこく頷く。
「そうです!」
「じゃあ、帯留めはティーカップかな?」
「あります?」
「探してやる。ほら、しゃんとしろ」
「っはい」
彼の声にいつもよりも背筋が伸びた気がするのは、多分気のせいなんかじゃない。
生真面目に返した音々に笑いかけた知晃が、再び手を動かし始める。
姿見には彼が銀座結びをこしらえていく様子がちゃんと映っているのに、手順がさっぱり頭に入ってこなかった。
「ん。俺は一途だから、こんなことは嫁にしかしない。結ぶのも、ほどくのも」
「・・・・・・っ」
着物の脱ぎ着は問題なく一人で出来るし、帯だって自分で解ける。
誰かの手なんて借りなくても。
それなのに。
目の前のこの男に帯をほどかれたいと思ってしまった。
息が詰まって言葉が出ない。
耳まで熱くなって血液が逆流を始める。
夏でもないのに逆上せてしまいそうだ。
衣擦れの音がして、帯の縁を整えるために着物の上を指が這う。
彼の一挙手一投足が心を揺さぶって疼かせてくる。
こんな私を、私は知らない。
ぐるりと音々の周りを一周して確かめた後で、知晃が満足気に頷いた。
「頼まれなきゃしてやらないから。して欲しくなったら言えよ?」
「・・・・・・ちゃんと・・・覚えますから・・・自分で・・・」
崩れ落ちてしまわないように必死に踏ん張りながら言い返す。
たぶん、これまで出会ったなかで、一番の強敵。
「じゃあ、一人で出来るようになるまでは、ここにいないとな?」
「・・・・・・でも」
「看板娘、お前に一番似合うと思うけど?」
「・・・・・・私、お荷物じゃありません・・・?」
否定されることを前提でこんな風に聞くのは間違っている。
でも、彼の優しさに甘えたくて口にした。
「お荷物だと思ってたら、わざわざ家に入れたりしねぇよ。俺はそんな面倒見よくないぞ」
視線を逸らして告げられたぶっきらぼうな言葉に赤くなった頬が緩んだ。
「旦那様、面倒見良いですよ・・・優しいし」
じゃなきゃ、何度か店に来たことがあるだけの音々を家に置いてくれるはずがない。
困っている人間を無視できるような人ではないのだ。
彼がどんなに粗野な言葉を使ったって、その根底にある優しさは少しも変わらない。
心根の温かさを知っているから、いつまでも側に居たいと願ってしまうのだ。
過ぎた願いだと知りながら。
この夢のような時間が少しでも長く続けばいいな、と欲を出しそうになる。
あとでどれだけ泣くことになっても構わないから、今だけは知晃の優しさに甘えて過ごしていたい。
瞳が潤んでくるのはコントロールの効かない感情が溢れそうになったから。
ここで泣いたら彼は驚くだろうし、心配もするだろう。
偽装の夫婦に涙は不要だ。
幸せで仲睦まじい時間しか、要らないのに。
伸びてきた指がそっと目尻を優しくぬぐった。
泣きそうになったことに気づかれたのだろうか。
瞬きを繰り返せば、またそっと目尻を拭われる。
「それは、お前がそうさせるんだよ」
知晃が静かに呟いた。
「・・・・・・え・・・っと」
「俺の嫁が可愛いから、優しくしたくなる」
仮初めの妻に対する褒め言葉としてはこれ以上のものはない。
嬉しい。
それが、本当の言葉だったらいいのに。
ありがとう、と目の前の彼に素直に抱きつけない自分が悔しい。
けれど、いまそれをしたらきっとこの気持ちを隠し切れなくなる。
だから、一歩下がって微笑んだ。
「・・・こ、これからも精進しないといけませんね。より旦那様の妻らしく振る舞わないと・・・あ、銀座結び、大人っぽくって素敵です」
姿見の前で背中を向けて、出来上がったばかりの真新しい帯結びを確かめる。
「太鼓結びのアレンジだから、すぐ出来るようになるよ」
「・・・そうですね」
「ほかにも、まだまだお前に教えてやりたいことが山ほどあるよ」
夏用の浴衣もあるし、仕入れに行けばもっと気に入る着物だって見つかるはずだと知晃が告げる。
いくらだってここで過ごす理由はあると口にする彼の声は真摯で真っ直ぐだ。
本当に音々がここに居る事を望んでいるように響く。
「・・・・・・はい」
「うちの着物全部着尽くすまで、ここに居ればいい」
彼が紡いだ言葉が、仮初めの妻に対するものなのか、音々に対するものなのか、わからない。
もしも、仮初めの妻に対するものならば、喜んでと頷くところだし、音々に対するものならば、お気遣いありがとうございます、と笑って躱すべきところだ。
けれど。
「・・・・・・そんなこと言われたら、私一生お世話になっちゃいますよ」
意地悪な切り替えしだとわかっていても、言わずにはいられなかった。
知晃だっていつかは誰かを選んで結婚するだろう。
そして、その相手と小梅屋を切り盛りしていくんだろう。
いま音々が使っている部屋は、将来は子供部屋になるのかもしれない。
一度も入ったことの無い彼の部屋に足を踏み入れることを許される女性は、どんな人なんだろう。
ずっといつまでも、居心地の良いこの家の居仮初めの妻で、居候で居続けちゃいますよ。
そんなの無理だってわかっているのに。
力なく落ちた指先を捕まえた知晃が、空っぽの左手の薬指を優しくなでる。
「そうすりゃいいよ」
もう笑っていいのか、泣いていいのか分からずにそっと目を伏せた。
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