第21話 菖蒲その1
黄色を少しだけ薄くした格子模様の菜の花色の着物の前を掻き合わせて、音々は落ち着かない様子で目を閉じた。
ぐるりと回された腕が慣れた手つきで動き始めて、二人の距離が一気に近づく。
当然のように強張ったままの指先は動かない。
震える呼吸に気づかれたら、笑われてしまいそうで、呆れられてしまいそうで、ぎゅっと身体を強張らせる。
そんな音々の表情をつぶさに見てとった彼は、穏やかに相好を崩した。
射抜かれたように感じたのはきっと気のせいなんかじゃない。
興味本位で尋ねたのが間違いだった。
まさか実地でされるなんて思わなかったのだ。
楽だから、という理由で和服を好む彼だから、着物に関する知識は間違いなくあるはずだし、それは女性用の着物についても同じことだろう。
音々なんかよりずっと沢山の着物を知っていて、着飾り方も知っている。
自分で着物を着るのが精いっぱいの音々の持っている知識なんて彼のつま先にも及ばない。
だからほんの少しだけ、彼の知識に触れたいな、と思った。
ただ、それだけだったのに。
がちがちに緊張している音々を気遣うように軽く背中を叩いた知晃が、丁寧に帯を巻きつけていく。
「ちゃんと踏ん張れよ。息は止めるな。あと、苦しかったら言いな」
「も、もう苦しいです」
「まだ絞めてねぇよ」
堪え切れず噴き出した知晃が、帯を結ぶ手を止めて真正面から見下ろして来た。
「ほんと先が思いやられるわ」
「だ、だってお太鼓結びが出来れば十分だって思ってたんですもん」
「・・・・・・別に自分で結べるようにならなくてもいいけどさ。俺がしてやるし」
なんてことない風に告げられた一言に、また胸が苦しくなった。
この人の優しさは時々怖いくらい暴力的になる。
その上本人は全くの無自覚なのだ。
彼の中で新妻は甘やかすものという謎の定義があるのかもしれない。
あるとしたらそれは間違いなく西園寺の影響である。
彼は細君のことを殊更溺愛して可愛がっているから。
けれど、あちらは正真正銘の夫婦、こちらは仮初の夫婦。
偽装妻だから許される距離と許される言葉なのに、本気になってしまいそうで怖い。
帯を結んでもらうということは、距離が近づくということで、当たり前のように着物の上をすべる手のひらには、何の下心も見えないのに、一方的赤くなって息が浅くなっていく自分が死ぬほど恥ずかしい。
知晃にとってはこれもきっと日常の一部なんだろう。
「え、でも、折角ならやっぱり自分で・・・」
教えて貰ったことは、ここを出た後もずっと残って行くから、それが好きな着物にまつわることなら猶更嬉しい。
マイナス思考に偏りそうになる気持ちを奮い立たせるように拳を握れば。
「覚えられたらな。俺、他人に教えたことねぇし」
そもそも教え方がわからん、とあっさり言われてしまった。
教えた事は、ない。
いちいち言葉尻に引っかかりを覚えてしまう自分が悔しい。
「・・・・・・でも、人に着せてあげたことはあるんですよね」
だってこのシチュエーションで、動揺しているのは音々一人だけだ。
音々が選んだ赤い薔薇が咲き誇る名古屋帯を手にした知晃は、顔色一つ変えずに近づいてきて帯を広げて音々の身体を抱き寄せてきた。
これで他人への着付けは初めてだと言われたら嘘ばっかりと詰ってしまいそうである。
「成人式の着付けの助っ人でな。お前とおんなじで帯結んでやっただけだぞ」
「・・・結んでやっただけって・・・」
これは多分結んでやっただけ、なのだろう。
でも、音々にとっては明らかにそれ以上の意味がある。
意味があって欲しいと勝手に願ってしまう。
予想通りの知晃の反応に何と返して良いか分からなくなった。
聞いたこちらが馬鹿でしたと視線を逸らせば、巻きつけた帯の長さを調整しながら知晃が悪戯っぽく微笑んだ。
「・・・・・・ほどいたこともあるけど」
「そうでしょうね!」
聞いていない事まで暴露されて大声で叫び返してしまった。
そんなこと言われなくても分かっている。
知晃の触れ方は、ちゃんと女性の身体を知っている男の人のそれだった。
彼の年齢を考えれば当然なのだろうけれど、無知すぎる自分との落差に歯嚙みする思いだ。
それなのに動揺しているのは音々のほうだけで、知晃は顔色一つ変えていない。
彼は本当にどこまでも大人の男の人だった。
「・・・・・・なんだ、拗ねんなよ」
至極楽しそうな声と共に、ぎゅっと帯を締められる。
踏ん張ったけれど自分で結ぶ時の数倍の力が込められて、あっさり彼のほうへ引き寄せられてしまった。
身体を引いた知晃がバランスを確かめるように視線を揺らす。
「踏ん張れって言っただろ?きつい?」
「だ、大丈夫です」
「黄色の着物に赤薔薇の帯・・・・・・美女と野獣?」
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