第20話 椿その2

女子寮に入れないなら、あんた家どうしてるの?いまどこにいるの?と矢継ぎ早に飛んできた姉からの質問に、あわあわする音々に代わって答えたのは知晃だった。


家の離れが空いているのでそこで生活して貰っており、他にも女性従業員がいるので心配ないと平然と答えた家主兼店主兼仮初めの夫を前に、音々はぽかーんと口を開けていたが。


「・・・・・・ちなみに離れは今の小梅屋な。もともと離れだったのを母親が店に改装したんだよあそこ。奥のスペースはまあ狭いけど寝起き出来んこともないだろ。一応鍵付いてるし」


だからこれはあながち嘘ではないと強気で答えれば、唇を引き結んだ音々が目の前の棚から一冊の本を抜き取った。


「ほかの従業員なんていましたっけ・・・?」


「俺が店に出られなくて、どうしても開けて欲しいって依頼がある時に、緒巳んとこの家政婦さんに留守番頼んでるんだよ。お前来たからもう呼ばないけど」


「あ・・・そうなんですね・・・」


「嘘は心苦しいって顔に描いてあるぞ」


「・・・・・・もう吐きません・・・というか、吐くようなことはしません・・・心臓に悪いんですもん」


素直というか馬鹿正直というか、家のごたごたに巻き込まれることが多かった知晃からしてみれば、音々はちょっと信じられないくらい純粋無垢だ。


疑う、とか、裏を読む、ということと無縁の世界で生きてきたのだろう。


だから、おいそれと手を出せないのだ。


「そうだな。お前がこの先善良な人間とだけ出会う事を祈るよ」


「ちょ・・・旦那様、嫌味ですか」


「いや。心からの本心」


心を歪めるのは想像よりもずっと簡単だ。


だからこそ、そちら側の後ろ暗い感情には触れて欲しくないなと思う。


これまでの恋愛は楽しむことに重きを置いてきたけれど、音々に向けて湧き上がってくる感情はそれらとは違う。


純粋にこの子の今と、未来を守ってやりたいと思ったのだ。


自分のなかにそんな良心が残っていた事に驚いた。


そして、そんな感情を抱かせた音々に、もっと惹かれた。


「嘘には、ちょっとだけ本当を混ぜるのがコツ。自分を守るためにもな」


「・・・・・・」


了承しかねるとわかりやすく顔に出た彼女の頭を子供にするように撫でた。


「まあ、俺の嫁は覚えなくてもいいけど」


この先これ以上の嘘を重ねるつもりもないし、吐かせるつもりもない。


すでにあの後、音々の姉と直接コンタクトを取って詳細の説明を行っている。


小梅屋の店主という肩書には微妙な顔をしていた彼女も、伊坂呉服の系列店の店主と別の名乗り方をしたとたん、ほっと肩を撫でおろした。


どう見ても閑古鳥が鳴いている小さな店の店主は信用ならなくとも、それなりの企業に所属する社会人だと自己紹介すれば、一気に信用度は増すものだ。


こんなところで実家の名前が役に立つとは思わなかった。


妹を一人日本に残して来たことを心底心配している姉にとって、大手企業の系列店への就職はかなりのワイルドカードだったようだ。


ひとまず信頼と好感は持って貰えたようなので、第一段階としては十分クリアである。


「・・・あ」


書架の上の棚を見上げていた音々が、何かに気づいて声を上げた。


「ん?気になる本あった?」


「えっと・・・・・・」


こくこく頷いた彼女が自分の身長より高い場所にある本を指さそうとして迷ったように手を握りこんだ。


「わかった。どれ?」


半分は助けるつもりで、半分は悪戯心から。


彼女の後ろに回って腰に腕を回すとそのまま持ち上げた。


「ぇ・・・・・・っっ!」


上げかけた悲鳴を飲み込んだのは、ここが静かな図書館であることを思い出したからだろう。


両手で口を押さえて宙に浮いた足をぶらつかせた彼女が、白地に樺桜色の水玉が描かれた袖を手繰り寄せて頬を押さえる。


動揺と羞恥心で染まった表情を下から見上げるのも楽しい。


「俺の腕が折れる前に選べよ」


いつかそれを腕の中に閉じ込めて見下ろせる日が来るのだろうか。


一刻も早く来て欲しいような、その日をのんびりと待ちたいような。


音々の隣で迷う時間はこの上なく幸せに満ちている。


「っ!」


思い切り険しい表情でこちらを睨みつけてきた彼女が、細い指で古びた背表紙の本を抜き取った。


そっと彼女を床に下ろしてそのまま真後ろから手元を覗き込む。


ぎゅっと音々が首をすくめたけれど気づかないふりをした。


閉じ込めるように書架に手を掛けて二人の距離を縮めれば、腕の中の彼女が視線を揺らした。


健気に震える唇を啄みたい衝動に駆られて、一度視線を逸らす。


「読みたかった本、それ?」


「はい・・・果てしない物語」


「どっかで聞いたことあるな」


「子供の頃に、読んだことがあって・・・・・・」


「着物以外にも、好きな本とか、好きなもの、ちゃんと俺に伝えて、夫婦で共有させてくれよな?」


「あ、はい!・・・私も、旦那様の好きなものを知りたいです」


目を伏せた音々が胸に抱えた本を守るように抱きしめる。


背表紙に触れた手を摑まえて、いま一番好きな女の子に、触れた。

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