第8話 熨斗目その2
必要な時に妻としての役割を果たしてくれればいい、と言われて同居が始まったが、今のところそのいざという時は、やって来ていない。
西園寺が初めて小梅屋に現れた時、冗談半分で肩を抱き寄せられて妻ですと挨拶したのが、仮初めの妻としての唯一の仕事だ。
「夫婦で申し訳ないって言い合うのおかしくないか?」
「・・・・・・まあ・・・そう・・・かもしれませんけど・・・でも、私は置いていただいている立場なので」
知晃が与えてくれる恩には全力で報いたいし、貰いっぱなしにはしたくない。
ここを去る時には、しっかりと何一つ心残りの無い状態で出ていきたいのだ。
「んじゃあ置いてやってる家主が座ってろって言ってんだからおとなしく待ってろよ」
「う・・・あ・・・はい・・・すみません・・・」
「あとさ、そのすみません禁止な。ここは俺の家だけど、いまはお前の家でもあるんだし、自由にする権利は二人にあって、遠慮する必要は無い」
「あ、はい!すみ・・・・・・座ってます」
「素直でよろしい。出し巻き焼いたから持ってって。お前好きだろ」
「え!好きです!嬉しい!」
田所家の定番の朝ご飯は目玉焼きではなくてだし巻き卵だった。
和食好きの父親に合わせた朝食メニューは、子供の頃は味気なくて好きではなかったけれど、大人になった今はあの味が何よりも恋しい。
「・・・・・・ん」
照れたように視線を逸らして頷いた知晃がコンロの火を止めて時計を確かめた。
彼が一通りの家事をこなせることは同居して二日目に知った。
偽装妻をしてもらう間は、家のことを適当にしてくれればいいと言われた時には、家事が不得意なのかと思ったが、音々の手が必要ないくらい彼は家事に長けていたのだ。
「馬鹿正直に9時18時で働くことねぇのに」
「でも、普通に社会人してたらそのタイムスケジュールでしたから・・・ずいぶん楽をさせてもらってますよ」
一階の掃除を済ませて洗濯物を干してから小梅屋の前を掃きに出るのが10時前。
だいたいいつも10時過ぎにはお店の引き戸を開けている。
午前中にお客さんが現れることはまずないのだけれど。
「俺は従業員も嫁もこき使ったりしねぇんだよ。ちったぁ気ぃ抜け」
「・・・・・・ありがとうございます。あの、旦那様」
「ん?」
「先週応募した派遣仕事が、上手く行ったら来週面接になりそうで」
伊坂家で寝起きを始めてからすぐに、未経験採用枠の仕事に片っ端から応募して来たがどれも空振りに終わっており、正社員を諦めて非正規雇用での仕事を中心に応募を始めてから1週間。
やっと一次選考通過のお知らせが届いた。
ひとまず、新しい家を借りれるだけの資金集めが必要になるが、三か月ほど真面目に働けばどうにかなるだろう。
というか、どうにかならないと困る。
「・・・・・・・・・そっか」
「もうしばらくご厄介になります」
最初はひと月もすればどこかで仕事が見つかるだろうと思っていた。
が、世は就職氷河期で、職探しをしている人間が大勢いるのだ。
社会人経験のない大卒女子にホイホイ仕事が降ってくるわけがない。
「・・・・・・あのさ・・・お前さ」
「はい」
「・・・・・・・・いや・・・その・・・・・・俺は、いつまででも居てくれて構わないと思ってる」
それは、最初に知晃が言ってくれた言葉でもあった。
自分は気ままな独り暮らしなので、居候の期限は決めなくていいから、ゆっくりこれからのことを考えるように、と諭された。
とにかくお金を作って何でもいいから仕事をして、と焦ってばかりいた自分を立ち止まらせてくれた言葉だ。
本当にこのお店を見つけられてよかった。
知晃に出会えてよかった。
でも、だからこそ、この感謝の気持ちが別の感情に塗り変わってしまう前にちゃんと自立したいと思う。
期待が膨らんで勘違いしてしまう前に、もう一度、店主とお客さんに戻らなくては。
「そんな風に言って貰えて有り難いです・・・私、何もお返しできてないのに・・・あの、旦那様。いつか、ここを出て、ちゃんと会社員になったら、お金を貯めて大量にお着物買いに来ますからそれまでお店閉めないでくださいね」
今度こそ空っぽのキャリーケースいっぱいに素敵な着物を買って帰れるようになりたい。
「・・・小梅屋好きだろ?」
「はい」
「だったらずっとうちにいて、小梅屋の看板娘やれよ」
いまの音々にとって一番魅力的な提案に、思わず頷いてしまいそうになる。
「・・・・・・そこまで甘えられませんよ」
看板娘でいられたらいい。
けれど、それ以上のものを望んでしまったら、大好きな小梅屋にいるのが辛くなってしまう。
彼が偽装妻を必要としない、本物の恋人を見つけたら、音々の役目は終わりになる。
そのあと、ただの看板娘と店主の関係に戻って、幸せそうな彼と恋人を見るのはやっぱり辛い。
揺れないようにするために、旦那様、と呼んでちゃんと線引きをしたのに。
馴染みすぎた伊坂家の空気と彼の隣は、驚くくらい居心地がよくて、簡単には手放せないから苦しい。
彼の善意を嬉しく思いこそすれ、苦しく思う日が来るだなんて。
勝手に育った恋心は、線引きした向こう側を目指して伸びあがって行く。
手を伸ばして貰えるわけもないのに。
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