第3話 鶴その3

「ねぇ、本当に知晃さんが何時に戻るか分からないの?」


イライラした様子で狭い小梅屋の店内を歩き回るワンピース姿の女性に向かって音々は素直に頷いた。


知晃の言う”敵襲”である。


行き場を無くした音々が小梅屋において貰えることになった一番の理由はこれでだった。


老舗呉服店の伊坂呉服の身内だという彼の元には、親族からひっきりなしにお見合い話が持ち込まれており、断っても断っても縁談が途切れたことがない。


身内が寄越して来た縁談に乗っかるつもりも、伊坂呉服の名前で誰かを娶るつもりもなかった彼は、のらりくらりとそれらを躱し続けて来たが、中には縁談を断った後も小梅屋まで推しかけてくる女性もいる。


目の前の彼女のように。


いい人がいないのなら、利害一致婚でも問題無いはずだと懲りずに押しかけてくる彼女のような女性を撃退するには、偽装結婚が一番手っ取り早い。


途方に暮れた顔で音々がお店にやって来たその日、知晃は寝床を提供する代わりに自分の自由を守る為の仮初めの妻になって欲しいと言ってきた。


結婚なんて夢のまた夢、恋愛すらまともにしたことのなかった音々には荷が重すぎると一度はお断りしたのだが、次の仕事と居場所が見つかるまでの期間限定で良い事と、居候中の費用は一切必要ないと願ってもない好条件を示されて、結局は頷く羽目になった。


ほかに行き場なんてどこにもなかったのだ。


偽装結婚を始めてから何度かこんな風に女性客が知晃を尋ねてやって来た。


その度に事実婚の妻です、と挨拶をして気の毒なお見合い相手たちにはお引き取り願っている。


「はい・・・会合の日はそのまま食事をされてからお戻りの日もありますし」


「あなたねぇ、事実婚とはいえ妻なんでしょう!?どうして夫の帰宅予定時間を把握してないのよ!?」


「仕事関係のお付き合いもあるでしょうから、あれこれ口を挟まないようにしているんです」


というか、口を挟める立場にないのだ。


音々に任された役割は、お店に押しかけてくる女性たちに知晃を諦めて貰うこと。


彼が小梅屋以外でどんな仕事をしていて誰と交流しているのか、音々は何も知らない。


そして、この先ずっと尋ねるつもりもなかった。


余計なことを聞けば、店主と客に戻った時に気まずくなってしまうからだ。


偽装結婚というとんでもない設定のおかげであやふやになってしまっている二人の距離感をこれ以上縮めることはしたくなかった。


ここを離れる時、胸が痛むからだ。


キャンキャン吠える女性に向かって、淡々と冷静に言葉を返す音々の態度が鼻についたのだろう。


ヒールを鳴らして目の前までやって来た女性客が、憎々しげに眉をひそめる。


「信用してるのかなんなのか知らないけど、あの顔で伊坂呉服の名前を出したら付いてこない女はいないのよ!?心配じゃないの!?」


「・・・・・・・・・私に出来ることはこの家で帰宅を待つことだけですので」


それを条件にここに置いて頂いてますので、と心の中で付け加えておく。


目の前の女性からしてみれば、見た目も地味でどう考えても知晃とは釣り合いの取れない店員もどきの内縁の妻が、身なりも育ちも良さそうな自分を前に対抗心を燃やすこともなく平然としていること自体が許せないようだ。


これまでお店にやって来たほかの女性客もみんなそうだった。


「信じられないわ!あの家から認められるまで一生そうやって日陰の女でいるつもり!?」


伊坂呉服の名前に見合った女性との結婚を望んでいる親族と、愛を貫く知晃の諍いは長く続いており、和解の糸口は見えてすらいない。


それでも知晃は音々との結婚を望んでおり、親族を納得させられるまで入籍を待つことを音々は望んだ。


というのが知晃が描いた偽装結婚の設定である。


日陰の女、大歓迎なんですが。


そもそもここに長居するつもりはないので、ほとぼりが冷めるか、知晃が心を動かすいい人が見つかれば音々はあっという間にお役御免である。


いまだってレジ奥で就職情報誌を必死にチェックしていたのだ。


「すべて納得の上でここにおりますので」


「あの家はあなたみたいな後ろ盾のない女は絶対に認めないわよ!」


「それも承知しております。それより、ぜっかくお越しくださったのでよろしければお着物お探ししましょうか?お嬢様はスタイルがよろしいので、こちらの大柄の牡丹なんてよく映えますよ。アンティーク着物ですが状態もいいですし」


いつものように相手の雰囲気や背格好に似合いそうな着物を見立て始める。


自分で着物を着るのも好きだが、誰かに似合う着物を選ぶのはもっと楽しい。


ましてやこんなに顔立ちも上品ですらりとしたスタイルの女性相手なら、着せたい柄が山ほどある。


小柄な音々はアンティーク着物の丈が足りないことは無いのだけれど、華やかな大柄はあまり似合わないのだ。


だから、こういう見栄えする女性を前にすると俄然張り切ってしまう。


「こちらの薔薇は、お嬢様の雰囲気にとってもよくお似合いです」


「はあ!?わ、私は着物を買いに来たわけじゃないのよ!だいたい着物なら伊坂呉服から山ほど・・・」


「訪問着以外にも、日常使いして頂けるお品がこのお店には沢山ありますので」


「っも、もういいわ。今日はこれで失礼するわ!そのうち伊坂の家から人が来てあなたは追い出される事になるでしょうから、覚悟しておきなさいよ」


フンっと流行りの小説の悪役令嬢のように颯爽と店を後にする女性客に、丁寧に頭を下げる。


いまのところ、これが音々の日常だった。

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