chapter2「優しいね」 その4

 回想 三月二十八日 アパート・タフィルーズ王子




 あれは確か、俺と母さんが引っ越しの作業をしていた時のことだ。

 偶然隣の部屋でも同じ日に引っ越しの作業をしている人がいた。

 そう、それが淡海さんだ。表札にわざわざ下の名前まで書いていた。

 俺の母さんと淡海さんのお母さんとが作業の合間に仲良くなり、一緒にお茶をすることになったんだ。


 その時のことだ。


「そっかー。じゃあ、うちの隼と時雨ちゃんは同い年なのねー」

「はい。巡り合わせですねー」


 母さんたちの会話で、淡海さんが俺と同じように一年浪人しているということがわかった。これがよくなかった。おかげで、無意味に彼女に対して親近感を得るようになってしまったのだ。


 淡海さんはとても物静かな性格で、話を振られない限りは母さんたちの会話に入ることもなかった。こういうところにも自分と似た空気を感じてしまう。まあ、無口なだけだろうが。

 

 話を聞いていると、どうも淡海さんは中高と女子高出身だったらしく、男子と面と向かう経験が乏しいらしい。無口な原因はどうやらそれだ。


 淡海さんのお母さんが淡海さんの話をするということは、俺の母さんも俺の話をするということだ。俺は出来れば止めてほしいと思ったが、うちの母さんは俺とは真逆で話したがりだ。

 

 話してほしくないと思っていた中学時代のこと、家族のこと。母さんは赤裸々に語ってしまった。

 特に、家族の話とか、明らかに初対面に話す必要もないことだろうに、母さんは話してしまうのだから、困ったものだ。


 当然母親だけでなく淡海さんも俺のことを色々と知ってしまうことになる。ますます気まずい。これから毎日のように顔を合わせるんだぞ、俺達。淡海さんも困るだろ。済まない、うちの母がお喋りで。



 親同士の会話が一段落して、ふと、淡海さんのお母さんが俺に向かって口を開いた。


「うちの子、男の子と話したこととかほとんどなくてね。隼君みたいないい子が隣でよかった。これから娘のこと、よろしく頼んでいいかしら?」


 いや、重いて。


 ほら、お宅の娘さん見てくださいよ。メッチャ顔赤くなっているじゃん。なんでそんな恥ずかしいこと言うの?

 俺は適当に返事はしたものの、正直参っていた。

 というのも、俺は頼みごとに本当に弱い。

 一度『頼む』と言われると、どうしても反古にはできない。


 ただでさえ気まずくなっていたのに、これじゃあ、余計に淡海さんとどんな顔してこれからやっていけばいいのかわからない。

 淡海さんもきっとそうだろう。既に意識してしまっているのだろうか、耳を赤くしてずっと下を向いている。

 致し方ないことだ。相手が俺だろうと誰だろうと、自分の母親がわざわざ『娘をよろしく』なんて言った相手に目を合わせることはできないし、恥ずかしくてどうしたらいいのかわからないものだ。


 何で、俺達こんな陽の母親を持ってしまったのだろうね。もっとも、淡海さんの方は男の俺がいるから静かなだけで、女だけの中ならハキハキとしているのかもしれないが。



 とにもかくにも、こんな感じで初会合を終えたのが淡海さんだ。

 普段は適当に愛想笑いを浮かべてやり過ごしている相手だ。


 その彼女が目の前にいる。果たして俺はどうするか?

 答えは決まっている。

 当然無視だ。

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