──28── 夜の終わり
カッターを握った手を見下ろして、表情が歪むのを感じた。じっとりした手汗で滑るそれを、ぎゅう、と握り直す。そしてとうとう一歩を踏み出そうとした瞬間、
「ッ──やめろ‼」
ものすごい力で一ノ瀬に抱え込まれた。はっ、と身体が跳ねて、一ノ瀬の横顔が視界に飛び込んでくる。凄まじい形相をした一ノ瀬が、甕岡に怒鳴り散らした。
「クソが‼ 終わるなら一人で終われ、こいつを勝手に巻き込むな‼」
「い、一ノ瀬──」
呆然と呼びかけた瞬間、一ノ瀬の拳が、思いっきり俺の顔面にめりこんだ。がっ、と喉から潰れた息が漏れて、なにすんだ、という言葉が、ものすごい顔の一ノ瀬に気圧されて、出てこなくなる。
「てめぇもだ敬斗‼ しっかりしろ、勝手にフラフラしてんじゃねえ‼」
「は……」
殴られた衝撃でゆるんだ手から、勢いよくカッターナイフをもぎ取られた。一ノ瀬が躊躇なくそれを放り捨てる。立ち尽くしていた美優が、はっ、と床のそれを遠くまで蹴り飛ばす。飛んでいったカッターナイフが壁にぶつかって、かつん、と小さな音を立てた。
「……いいの? 武器を捨てちゃって」
静かな声が響く。甕岡が、うっすらした笑みを浮かべていた。ゆりの首からはまだ赤色が伝っていて、状況はなにも変わっていない。
「カメ兄……」
「なつかしいな。その呼び方」
呆然とした呼びかけに、甕岡が嬉しそうに目を細めた。軽く肩をすくめる仕草をして、彼は言う。
「さて、無事敬斗くんが丸腰になったところで。きみたちに一体、なにができるのかな?」
「それは」
「敬斗くん以外が近寄ったら、僕は迷うことなく、彼女にこれを突き立てるよ」
なんのためらいもなく断言する甕岡に、びくっ、と肩が跳ねた。なんで、どうして、と頭の中がぐちゃぐちゃになる。現状の、意味がちっともわからなかった。
甕岡が、なんで俺にここまで執着するのかわからない。俺はただ、たまたま近所に住んでただけだ。彼の与えた〝物語〟を、信じた大勢の一人なだけだ。彼の行動原理が、ちっとも俺にはわからない。
ふら、と前に出そうになって、くん、と引っ張られる抵抗を感じた。一ノ瀬だった。こわばった必死の形相で、彼は俺の手首を掴んで首を振る。おそらくは緊張で冷え切った彼の指先、ちゃんと男の手のひらの内側が、汗で冷たくしめっていた。
(一ノ瀬……)
掴まれた手首を見下ろして、思う。
この男は、本気で俺を案じている。ゆりのことを思っている。たくさんの人を助けて、自分の身をなげうって、俺もまた彼に、ここまでしてもらっているのに。それでも俺はやっぱり、一ノ瀬のことがわからない。
そっと顔を上げた。端正な瞳が、すがるみたいに、頼むとでも言うように、俺をまっすぐ見つめていた。でもわかるのはそれくらいで、彼がなぜいつも他人のために、ここまで懸命になれるのか、俺にはまるで理解ができない。
同じ男だってそうなのだ。ゆりや美優に至っては、もうカケラだってわからない。俺は誰のことも理解できなくて、たぶん大勢の人を傷付けている。
(……でも)
掴まれた手首を見下ろした。痛いほど握られた、すがるみたいな力の強さに、一ノ瀬の確かな、鮮烈なほどの情動を感じる。それだけが、なにかの印みたいに思われた。
顔を上げる。口を開いた。
「一ノ瀬」
「……なに」
「俺はおまえのこと、ちっとも理解できない」
断言すると、一ノ瀬がぱち、とまばたきをした。いぶかしむ表情を見つめ返して、俺は言う。
「でも、俺はおまえが好きだし、一緒に調査をするのは楽しかった」
「敬斗……?」
顔を上げて、背筋を伸ばして、俺は甕岡に向き直る。できるだけはっきりした声を作ろうとして、でも、うまくいかない。
「甕岡さんも、そうだ」
呼びかけに、甕岡が薄く目をすがめた。俺は震えそうになる声で、できるだけ素直な気持ちで、彼に呼びかけた。
「俺、やっぱりあんたのこと、なんにもわかんねえよ。意味不明だし、きもちわるいし、あんたのしたことは犯罪で、あんたの行動原理も、夢も理想もやりたいことも、ぜんぜん、わかんねえ」
でも、とつぶやいた。
俺にとって他人は、甕岡は、一ノ瀬や女の子や、ありとあらゆる他の誰かは、正体不明の理解不能な存在で、ちっとも意味がわからない。
だけどそれでも、どうしたって変えられないことがある。動かせない情がある。
だから言った。みっともなく震える声で、それでも、振り絞って伝えた。
「いくらあんたがわからなくても。それでも俺、まだカメ兄のこと、好きなんだよ……」
語尾が勝手に掠れていく。じわ、と目元がにじんで、視界がぐしゃりと揺れていった。
「あんたがひどい奴だって、犯罪者だって、処女厨で最低の洗脳強姦野郎だって、わかっても。それでも俺、カメ兄が好きだ」
だってずっと優しかった。憧れていたんだ。こんな大人になりたいって、ずっと思ってた。
俺が見てた彼は全部幻想で、ただの夢で、都合のいい思い込みだったのかも知れないけれど。なんにも、わかってなかったのかもしれないけど。それでも。
まっすぐに顔を上げて、甕岡を見つめた。泣きそうなまま、うまいことなんかちっとも言えなくて、それでも言った。
「俺はもう、なにがなんだかわかんないよ。誰のこともちゃんとわかってなかった、バカだった」
だけど、と言った声が詰まる。それでも上げた顔を降ろさずに、合わせた視線を必死に保つ。
「わからないからこそ、理解しようとすることを、やめちゃいけないんじゃないのか。本当のことを知りたいって、願い続けなきゃいけないじゃないのか」
自分とは違う存在に、勝手に美しい物語を押し付けて、偶像として消費するのは、相手に対する冒涜だ。本当のことを知ろうとしない、罪にも等しい行いだ。
「俺はあんたの思うような存在じゃないし、ゆりや美優は、あんたを気持ちよくするための天使じゃない。あんたがどんな夢を見てようと、本当の俺たちには関係ない」
それは逆についても言える。甕岡だって、ゆりを助けるための救世主じゃない。美優の理想の恋人でもない。彼女たちがどんな願望を抱いたって、彼に応える義務はない。
ぎゅう、と手を握りしめて、俺は歪む表情をこらえて、彼に呼びかけた。
「俺もそうだ。あんたにずっと、〝憧れのカメ兄〟っていう夢を見てた。本当のあんたは全然、そんなんじゃなかったのに。ごめん」
「……」
甕岡が黙り込む。その瞳に少しだけ暗い色がよぎって、俺はずきりと心臓が痛くなった。ごめん、と思った。
この人がどうしようもなくなったのはたぶん、諦めてしまったからだ。知ろうとしなかったからだ。女の子が天上の美しい存在であることを信じてしまった。本当の姿に目を凝らすことをやめてしまった。
たぶん俺たちはずっと、自分と違うものを傷付けながらも、愛することをやめられない。甕岡が彼女たちに惹かれて、自分を維持できなくなったみたいに。ゆりが男たちにうんざりしつつも、自分を救ってくれると信じたみたいに。
絶対に理解できない異質なものに、夢や理想を投影して、光のように憧れるのを、俺たちはどうしてもやめられない。
(──それでも、俺は)
一ノ瀬の手をやわらかく振り切って、一歩だけ前に出た。震えきったくちびるを開いて、いつもよりずっと情けない声が出る。
「なあカメ兄。話をしよう。俺はあんたのことが知りたい」
それだけが大切だと思った。本当の心だった。
どうしたってわからないから、俺たちは話をするんだと思う。たとえ絶対に理解できないと決まっていても、わからないと知っていても。
分かたれた溝の向こうに何があるのか、幻想を取り払った本当の姿を知ろうとするのを、やめてしまっては駄目だ。
「なにを言ってもいいよ。どんな話でも聞く。ずっとわからなくてごめん。だから、あんたのことを教えてよ」
もう一歩近付く。手を差し伸べて、顔を歪めて、せめて伝わってほしいと願いを込める。呼びかける。
「だって俺はまだ──カメ兄のことが好きだから」
だから諦めたくないんだ。どうしても。
そうささやくと、甕岡が小さく喉を鳴らした。ひく、とかすかな音がして、穏やかだった瞳が、ほんのかすかに見開かれる。
そうして──長い、長い沈黙のあと。
甕岡が、震える声で俺を呼んだ。敬斗くん、という、どこか頼りない呼び声に、俺は黙ってうなずき返す。甕岡の、目元が歪んだ。
「きみはやっぱり、……とても素直な、いい子だね」
それだけを言うと、彼は刃物を持っていた腕を、ぱたりと落とす。そのまま、ゆりの拘束が解かれた。
ゆりが弾かれたように飛び出す。勢いよく美優の胸に飛び込んで、美優はぐずっ、と鼻を鳴らすと、ゆりの背をぎゅうっと抱きしめた。
「……帰ろう、ゆりち」
「うん、……うん……」
二人の少女が、肩を震わせて泣いている。それを見つめる俺の隣を、一ノ瀬がさっと追い抜いていった。流れるような動きで、甕岡の手から刃物を奪い去る。そのまま彼の腕をひねり上げた。
「一ノ瀬……!」
「わかってる。念のためだ」
突き飛ばされ、膝をついた甕岡は、ひとつも抵抗をしないまま、一ノ瀬に拘束されている。ただひどく静かな、少しだけ暗い瞳をして、彼はゆっくりと俺の目を見つめた。うっすらとした、見たことのない微笑みが向けられる。
「……ありがとう、敬斗くん。きみがいい子で、僕はずっと、……救われてた」
「カメ兄……」
その言葉の意味は、やっぱり俺には理解できない。それでも、たぶんこれが彼にとっての、本当なんだと思った。だから黙ってうなずいた。甕岡は少しだけ笑うと、小さくうなだれる。長い、長い吐息が聞こえた。
だだっ広い部屋の中に、ゆりと美優の泣き声が、静かに響いている。きらきらしたシャンデリアの光を打ち消すように、はめ殺しの窓の向こうから、少しずつ、淡い光が差しはじめていた。
ちらと窓を見た一ノ瀬が、ふーっ、と息を漏らす。端正な顔立ちが俺を見つめて、視線が静かに交わった。硬かった彼の表情が、少しだけゆるむ。美しい頬を陽光が照らす。
それを見て俺はようやく──この夜が終わったんだと思った。
窓の外に目をやる。清潔な、白い朝がやってくる。俺は長いため息をひとつ漏らした。虚脱感にも似た安堵が、やわらかく俺を包んだ。
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