──27── きみがいいんだ
彼の頬には相変わらずの、いつもとまったく変わらぬ微笑みが浮かんでいる。それが逆にひどく恐ろしく思われて、喉がからからに乾いた。こく、と鳴らした嚥下が不自然に張り付く。
恐る恐る見回しても、誰も、なにも喋らない。そろそろと甕岡を見た。視線が、静かに交わる。
たぶんこの場を動かすのは、俺しかいなかった。だから言った。
「や……やめてくれ、甕岡さん」
絞り出した声がひどく震える。
怖かった。目の前の大人が、いつもとまったく同じ顔をしたまま、当たり前のように刃物を取り出した人間が、あまりにも得体が知れなくて、なんの理解もできなくて。怖くて、恐ろしくてたまらない。
みっともなく震えながらの呼びかけに、甕岡は薄く笑った。「どうして?」という静かな声がする。
「どうして、って……こんなこと、犯罪で、良くなくて、だから」
「そんなことはわかってる」
とっくにわかってるんだよ、と重ねる言葉は、不自然なくらい落ち着いていた。にこり、と微笑みを浮かべて、甕岡の視線がまっすぐに俺を見つめる。
「どうせ僕はもう破滅だ」
「だ、だからって、自暴自棄になるのは」
甕岡が首を振った。違うとでも言いたげな笑み。敬斗くん、と甕岡が俺を呼ぶ。頷いた。怖かった。
甕岡が、俺を見つめたまま、ささやくみたいに言った。
「ずっとずっと、やめたいのにやめられなかった」
今回もそうだよ、と笑う。
「たまたま、店の裏手でこの子が〝交渉〟してるところに出会ってさ。びっくりしちゃったよ」
甕岡の声が、すとんと一気に低くなる。
「それからは──もう駄目だった。いつもみたいに口が動いて、何日もかけて籠絡して、ほとんど衝動的に、彼女を誘拐してしまった。簡単な仕事だったよ」
拘束されたゆりが、眼球だけを動かして甕岡を見ようとする。その首筋に少しだけ刃物を押し込んで、甕岡は穏やかな苦笑を浮かべた。
「自制心だけで、なんとか彼女を抱くのをこらえてきたけれど。どうすればいいかなんて、僕にはもうわからなかった。小野塚さんはちっとも家に帰りたがらなかったし、それどころか、僕に抱いてくれって迫ってくる。無理矢理家に帰したところで、僕のことを喋られたらおしまいだ。かといって、このまま自宅に住まわせて、それがバレてもやっぱり終わり」
だからさ、と言って甕岡は、目を細めて、白い歯を見せて、静かに笑った。
「僕はもう、とっくに詰んでるんだよ」
「甕岡、さん……」
俺の呼びかけに、甕岡がうん、とうなずく。なんの返答かわからない相槌だった。甕岡は目をそらさずに、他の誰でもない俺を見つめたまま続ける。
「どうやって終わるか、ずっと考えてた。だからさ」
きら、と大きな手の中で刃物が光る。ゆりの首元でかすかに刃が動いて、ひっ、と引きつったゆりの声。甕岡が静かに言う。
「はじめから、こんなものさえいなければ。こんなきれいな、儚くてかわいくて柔らかい、すてきな、生き物さえいなければ。そうしたら、僕は、もっと違う──」
「──夢見てんじゃねえよカス‼」
つんざくような叫びが、甕岡の声を遮った。はっ、と俺の肩が揺れる。一ノ瀬だった。
俺の隣の一ノ瀬は、握った拳をゆっくりと開いて、低い声で言った。
「女の子だって人間だろ。おまえはただ、自分が理解できない存在に、勝手な夢を押し付けただけだ。現実の見えてない、単細胞の、ただのマヌケだ」
煽る言葉を吐きながら、一ノ瀬がかすかに腰を落とす。それを見留めて、甕岡がすうっと目を細めた。ふふ、と小さな笑い声。
「そんな見え見えの挑発に、僕が乗ると思ったのかな。知ってるよ、〝此倉街の天使〟は護身術にも長けてるって」
「っ……!」
「掴みかからないと出せない技なんだって? 僕が冷静で残念だったね」
一ノ瀬が青ざめる。ちっ、と舌打ちの音がして、それでも彼は落とした腰も、開いた手も、警戒の姿勢のまま動かさなかった。
首に刃物を当てられたまま、はっ、はっ、とゆりが引きつった呼吸を繰り返す。その喉から、震える声がした。
「あなたが、こんな人だと思わなかった」
こわばった顔で、軽蔑じみた声を上げるゆり。甕岡がおや、という顔をする。けれど彼は薄く笑って、ゆりと同じくらい侮蔑的な表情を浮かべた。
「ずいぶんな言い草だけど。きみもなんにもわかってないよ。きみだって、僕に負けず劣らず──ヘドが出るほど、夢見がちだった」
「ッ……!」
「けがれた男に夢を見て、身を委ねたりするから、こんな目に遭うんだよ。まあ、この状況で声を上げる、その度胸だけは感嘆するけど……残念だったね」
「……最ッ低……」
呪詛じみた言葉を吐き合う二人の目には、紛れもない嫌悪と憎悪が浮かんでいる。俺の好きだったはずの二人が、刃物なんて持ち出して、罵り合う言葉を投げあっている。その光景が信じられなくて、俺はただ、なんで、どうして、という言葉がぐるぐると回るのを感じていた。
(どうして、こんな──)
この二人は、ついさっきまで、共犯関係にあったはずだ。共に身体を重ねようとすらしていたはずだ。それなのにこれはなんだ。夢を見て、幻想を押し付けて、挙げ句こうして、罵って。どうしてこんなことになってるんだ。
ゆりと甕岡は、共に破滅する関係のはずだった。そんな二人でさえ、わかりあうことはできなかった。ゆりの甕岡に対する認識は現実とぜんぜん違うし、甕岡のゆりに対するそれだって同じだ。ふたりとも、お互いのことをなんにもわかってない。
(それだけじゃ、なくて)
甕岡みたいな大人が一生かかって考えても、どうにかしたいと人生をかけてもがいても、女の子のことはわからなかった。夢見ることをやめられなかった。
ゆりが純潔を嫌悪して、今までの生活を全部捨てても、その身をなにもかも明け渡しても、男のことはわからなかった。幻想を捨てられなかった。
彼らは互いに身勝手な夢を見て、思い込みだけで言葉をつむいで、お互いにお互いを罵り合っている。大好きだったはずの人たちなのに。
(……どうして、こんな)
目の前では、燃えるみたいな瞳のゆりと、冷え切った目をした甕岡が、憎むみたいに見つめ合っている。こんなはずじゃなかった光景が、目の前で光っているナイフが、俺の心臓をずきずき冷たくする。
わかりたいって思ってた。一ノ瀬と一緒に考えようって、これから頑張って考えようって、思ってた。でも。
俺が誰かを理解することなんて、永遠にできないんじゃないか。その思考が後から後から浮かび上がって、ちっとも、消えてくれない。怖くてしょうがない。
だって俺たちはどんなに頑張っても女の子にはなれないし、女の子はどんなに頑張っても俺たちにはなれない。異質なものはわからない。だったら。
目の前で、どうしようもなく罵り合う、俺の好きな二人。心臓が苦しい。喉が詰まって、息がうまくできない。嫌な予感が、確信が、腹の底を冷たくする。
わかりたいって思ってた、だけど──もしかして。
ほんとうは、どんなに懸命になっても、相互理解なんて世界のどこにも存在しなくて。俺たちは夢や幻想を相手に抱きながら、傷付けあうしか残っていないのか。
(そんなのは──)
床の底が抜けて、ぐら、と揺れるような感覚があった。思わずたたらを踏みそうになったとき、甕岡の目がちら、と俺を見た。ゆりを見下していたときとまるで違う、少しだけさみしそうな色が瞳ににじむ。
「ねえ、敬斗くん」
何気ない呼びかけと共に、ぽん、と俺の足元になにかが投げてよこされた。恐る恐る見下ろして、その正体を認める。
「っ、これ……」
大ぶりのカッターナイフだった。えっ、とバカみたいな声が漏れて、愕然とした顔のまま甕岡を見る。ゆりもまた、凍りついたみたいな目で、甕岡を振り仰いだ。
「知ってるよ。僕はもう詰んでいる」
甕岡の、淡々とした声。静かな微笑み。その目が、まっすぐに俺を射抜いている。
「どうせ終わりにするのなら、他の誰でもないきみに、僕の理想を体現してほしい」
「そんな、俺、は──」
この人は、なにを言っているのか、わかっているのか。目を見開いて、信じられない思いで首を振る。けれど甕岡は駄々をこねる子供を見るみたいな目をして、だめだよ、と静かに俺をたしなめた。
「敬斗くん。僕はちゃんと教えたはずだよ」
ゆりの首元に刃物を押し当てたまま、甕岡の声が、一気に真摯な色を帯びる。
「このきれいなものを、きみが守ってあげなきゃいけない。きみが、やるんだ。いいね?」
「……っ」
──この、言葉は。
(あの、ときの──……)
一瞬で、幼少期の光景が蘇る。公園の片隅で、真摯な顔の甕岡に見つめられて、〝ほんとうの物語〟を与えられた、きらきらした瞬間のことを。
にこり、と甕岡が笑う。まるで憧憬みたいな顔で俺を見る。
「敬斗くんを見守るのは楽しかった。きみは無垢な目で僕の理想を受け入れて、とても素直に育ってくれた」
嬉しかったよ、と噛みしめるみたいな声がした。
「僕には絶対にできない、きれいな理想を、きみが生きてくれたから」
「お……俺はそんな、別に、なにも」
甕岡が首を振る。ふ、と小さな笑い声。
「きみはそれでいい」
少しさみしそうな、静かな、穏やかな目が、逸らされることなく俺を見つめた。足元に転がるカッターと、目の前で光っている刃物が、俺の思考を麻痺させる。
「僕はどうしたってもうやめられないけど、二度ときれいには戻れないけど。きみが僕の代わりに、美しく生きてくれれば、それでいい」
さあ、と甕岡が催促の声を上げた。うながすように俺を見て、にこりと瞳が細くなる。
「ほら。早くしないと、小野塚さんが危ないよ」
刃物の先端が、ゆりの首筋に押し込まれる。ひっ、とゆりが悲鳴を上げて、ぷつっ、と皮膚を破った先端から、ひとしずくだけ血が滲み出した。真っ赤な色彩が、首筋を赤く伝っていく。
(ど──どうしよう、どう、すれば)
震えるほど怖かった。この状況のすべてが俺の手に委ねられていると思うと、心がばらばらになりそうだった。
目の前では甕岡が、俺のなにかを待っている。一筋の真っ赤がゆりの首を伝って、襟元をじわり、と染めていく。
「っ、は──」
呆然と、足元のカッターナイフを拾った。目の前の人を見つめた。心臓がどくどくと鳴って、手が震えて、怖くて、怖くてたまらない。
カッターを持った俺を見て、甕岡が嬉しそうに微笑む。絶望的な気持ちになった。
この人のことが大好きだった。信じていたし尊敬していた。この人は、たしかに間違っていたけれど、それをわかった上で、俺に終わらせてほしいって言った。
(俺、俺は、)
ゆりの首筋に伝う赤色が、すごく怖くて、目に焼き付いて、離れない。手の中に握った刃物がかすかにすべって、指先が冷たくなって、心臓が、痛いくらい鼓動を打ち鳴らして。絶望が俺の胸の底を叩いて、ほとんど諦念みたいな情が、じいん、と湧き上がってくる。
(俺は──この人の言うことを、受け入れるしか、ないのか)
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