──11── 女の子はきれい、女の子はかわいい、女の子はすてき
「……おまえ、すげえなあ」
ぽつり、とつぶやいた。一ノ瀬の目が、なんだと言わんばかりに俺を見る。
「ほんとに人気者なんだな、って」
正直な感想を言ったのに。一ノ瀬は呆れたように目を細めると、ふ、と小さく息をつくだけだった。
「あれはそういうんじゃないから」
あっさりした口調に首をかしげる。一ノ瀬は肩をすくめてみせた。
ネオンや電飾、煙草の火やスパンコールで、ゆらゆらときらめく街。その真ん中を我が物顔で通り抜けながら、一ノ瀬は俺にしか聞こえない声で言う。
「みんな、俺が顔が広くて、役に立つから寄ってくるんだ。そしてみんなが寄ってくるから、俺の価値はまた上がる。上がった価値につられて、さらにみんなが寄ってくる──その繰り返しだよ」
それで気がついたら、〝天使さま〟の出来上がりってわけ、と一ノ瀬は肩をすくめた。苦笑がちらりと俺を見る。
「ま、マージンでいい思いさせてもらってるからいいけどね」
わざと悪そうな笑みを浮かべてみせる一ノ瀬。けれど俺は、昨夜あのトイレで聞いた言葉を思い出していた。
──〝此倉街の天使〟は、少女たちを売り飛ばす仲介人。大人はみんなそう思ってる。
けれど本当は、彼はマージンを一円も受け取っていない。それどころか、さっきの話を聞く限り、レンタル彼女やリフレで稼いだお金だって、此倉街の女の子のために使っている可能性が高かった。
(どうして一ノ瀬は、こんなことしてるんだろう)
同情や憐憫にしたって、普通ここまでするだろうか。
彼もまた、この街で自分自身を売っている一人だ。そのお金をぜんぶつぎ込んで、ここに落ちてきた少女たちを助けている。さらに〝お仕事〟の合間を縫って、ことあるごとにSNSをチェックして、彼女たちのために安全な店まで紹介しているのだ。
どれもこれも、時間もお金も労力も、とんでもなくかかる行為だった。尋常なことではない。
「……敬斗? どうしたの」
「えっ、あ──」
はっとする。一ノ瀬が、怪訝そうな顔で俺を見つめていた。一人でうんうん考え込んでいたのがバレたらしい。俺は慌ててごまかしの言葉を探して、えっと、と視線をさまよわせた。
(えっと、どうしよう)
そのとき、一ノ瀬の美しい佇まいの向こうに、ちかっ、と光るものが見えた。ほとんど何も考えず、とっさに指を差す。
「ほ──星! そう、星が見えるなーって!」
「え?」
一ノ瀬が振り返って、空を仰いだ。そこにはたしかに、ぽつりとひとつ、小さな星が光っていた。
「此倉街なのに見える星があるなんて、すごいなって」
半分はごまかし、でも半分は本当だった。こんなにまぶしい街からじゃ、星なんてひとつも見えないと思っていたのに。
俺の言葉に、一ノ瀬がなぜか、数秒間黙った。ゆるゆると、詰めていた息を吐くような音。とても小さく、すうっと吸う音が続く。
「……あれは木星だよ。もうじき衝になるから、今もだいぶ明るいんだ」
「衝?」
聞き慣れない単語に首を傾げる。一ノ瀬は星を見上げたまま、淡々と言った。
「外惑星が太陽と反対側に来るタイミングのこと。地球との距離が縮まるから、明るく見えるんだ」
そこまで言うと、彼は呆れたように俺に視線を投げかけた。
「……っていうか、おまえ天文部だろ? なんで知らないの」
「いや俺、力仕事専門だし」
正直、星についてはまだまだ勉強中の身だ。美優とふたり、ゆりに色々教えてもらっている最中だった。
「てか、一ノ瀬すげえな! 星、詳しいんだ」
「……いちおう、理系だから」
しぶしぶ、という感じで言う一ノ瀬。そうか、こいつ二十一歳だから、大学生の可能性もあるのか。
そういえば、一ノ瀬は自分のことをほとんど話さない。話したくない、というオーラがばしばしに出ている。いったい一ノ瀬はどういうやつで、昼間はなにをしてるんだろう。
ものすごく気になるものの、興味本位で聞くことはためらわれた。それでも興味がそそられるのは押さえきれなくて、俺はむう、とくちびるを尖らせる。
「それにしても、星なんてずっと見てなかったな」
ぽつり、と一ノ瀬が言った。妙に静かな横顔が、ネオンに押しやられた夜空の中、たったひとつしかない星をそっと見上げている。
「そう? 此倉街からじゃ見えないから?」
何気なく尋ねただけなのに。一ノ瀬は不自然に口をつぐんだ。ぎこちない、数秒の沈黙。そして、
「……いや」
彼はとても静かに、けれど少しだけさみしそうに微笑んだ。
(なんだろう……)
俺の知らない表情だった。十七年生きてきて、俺はまだ誰の目の上にも、こんな色を見たことはなかった。それくらい複雑な、言葉にできない表情だった。
ぼうっと見つめる俺の視線に気付いたらしい。一ノ瀬がふっと苦笑して、あからさまに話題を切り替えた。
「ていうか、星に興味ないなら、なんで天文部なんか入ったの」
「え? あ、それは……頼まれたからだけど」
天文部への入部経緯を簡単に説明する。すると一ノ瀬は、はあ? と目を丸くした。
「その美優って子。同じクラスの女子、ってだけだろ」
「そうだけど」
「いや……いくら困ってたからって、なんでそんな理由で、ずっと続けてた陸上をあっさり辞めちゃったわけ」
「だから、たまたま怪我して──」
「二ヶ月で完治する怪我だったのに?」
「まあ、それはそうだけど……」
俺はもごもごと口ごもると、言うべきかどうか、少し悩んだ。あー、とつぶやいて視線をさまよわせる。
指先で軽く頬をかいた。途端、やめろメイク崩れる、と声が飛んでくる。慌てて手を下げた。ちえ、と舌打ちする。
「ま、他に理由がなくもないんだけど、さ」
なんか恥ずかしいんだよなあ。そうつぶやく俺を、一ノ瀬が促す視線でじっと見つめてくる。しょうがない。少し照れるけど、まあ、こいつになら話してもいいだろう。
俺は小さく息を吐くと、えっと、と話しはじめた。
「甕岡さんの話、したよな」
「カメオカ──ああ、部活のドキュメンタリー撮ってるっていう」
「あのひと、俺の近所のお兄さんでさ。ずっと憧れてたんだ」
甕岡はいつも優しくて弱い子の味方で、俺にとっては大好きなお兄ちゃんだった。小さい頃はカメ兄なんて呼んで、事あるごとに後をついて回っていた。
「小学生のとき。俺、ガキ大将だったんだ。我儘で横暴で傲慢だった。でも甕岡さんは、そんな俺を叱ってくれた」
いつも公園で集まる友達の中でひとり、特別とろくて、どんくさくて、遊びの足を引っ張ってばかりの女の子がいた。俺はにぶいその子に苛立って、いつも彼女にきつい態度を取っていた。言いすぎて泣かせたことも、一度や二度じゃなかった。
でも甕岡は、彼女をいじめていた俺をきつく止めると、それはダメだとはっきり言ったのだ。
あのときのことは、今でも忘れられない。
『敬斗くん、男の子だろ? 男の子は、弱いものをいじめちゃいけない。ちゃんと守ってあげるんだ』
いつも優しいお兄ちゃんだった甕岡の目は、見たことがないほど真剣だった。はっきりとこちらを咎める色をしていた。
『とくに女の子は、大事にしてあげないといけないよ』
たしか俺は、『女の子を? どうして』なんてきょとんとしていた。あのときの俺は子供で、大切なことをなにもわかっていなかった。
『女の子は、きみや僕とは違うんだ。やさしくて、柔らかくて、あったかくて素敵で──』
そう言うと、甕岡はちらりと公園の奥を見やった。ブランコに座って涙をこらえる女の子。俺が泣かせた子だった。甕岡がそっと目を伏せる。
『──誰にもまだ、けがされていない、儚くてきれいなもの』
とても静かな、噛みしめるみたいな声。ぽかんと口を開いた俺の内側に、その声音がじわじわと染み込んでいく。
甕岡の黒い瞳が、やわらかく俺を見つめた。
『きみは男の子だ。あのきれいなものを、きみが守ってあげなきゃいけない。きみが、やるんだ。いいね?』
いつも優しい甕岡が、こんなに真剣になるのは初めてだった。他の誰でもない、きみがやるんだ、と言われて、憧れのお兄ちゃんに、期待されていると思ってどきどきした。
『──……っ、うん』
わかった、と答えた語尾は少し震えていた。
やさしくて、柔らかくて、あったかくて素敵で、けがされていない、儚くて、きれいな。
与えられた言葉が不思議な実感となって、ゆっくりと俺の奥に入ってくる。心臓が高鳴って、なにかよくわからない高揚で頬が熱くなった。
他の誰でもなく、この人が言うのなら、きっとそういうことなんだと思った。本当のことを教えられたのだと感じた。与えられた言葉がぐるぐると胸の奥を揺らして、特別な大人がこっそり教えてくれた世界の秘密、気付かなかった本当の真実に触れたみたいな気持ちになって。
──たぶんそれから俺は、正しく『男の子』になったのだと思う。
「……あれはカルチャーショックだったなあ」
くす、と笑う。少し遠い目をして、俺はつぶやいた。
「それまで俺の世界に〝女の子〟はいなかった。あのとき初めて俺は、世界には自分とぜんぜん違う、弱くて可愛くてけがれのない、きれいで素敵なものがいるんだって、心からわかったんだ」
「……」
「なーんて、ちょっと恥ずかしいけどな……って、一ノ瀬?」
一ノ瀬は、無言で顔をしかめていた。可憐で端正な眉をきゅっと寄せて、くちびるをかすかに引き結んでいる。
どうしたよ、と訪ねても、彼はべつに、と言うだけだ。長いまつげがまばたいて、可憐な瞳が静かに俺を見つめる。わずかなためらいの後、彼は淡々と口を開いた。
「……おまえ、素直なのは取り柄だけど。なんでも鵜呑みにしすぎるなよ」
「へっ」
どういうことだ。
けれど一ノ瀬はそれ以上この話題を続ける気はないらしい。俺がなにを訪ねても、涼しい顔で足を進めて、夜の街を歩くばかりだった。
(なんだよ……)
とっくに気付いているはずの問いたげな視線をスルーして、一ノ瀬の清楚な横顔が夜の空へと持ち上がる。んー、と小さな声がした。
「木星があんな位置ってことは、あと三十分くらいで今日の調査は終わりかな」
「え、もう?」
「もう、だよ。おまえ、未成年だろ」
ぴしゃりと言い放たれ、俺はぐむ、と口をつぐむ。
「あとは俺が〝お仕事〟ついでに聞き込み続けとくから。明日また報告する。いいか、ちゃんと帰れよ」
語尾を強くして念押しされ、俺はますますぐむむ、と黙り込んだ。本当はもっと調査がしたかった。とにかくゆりが心配だった。
でも、白い髪に赤い瞳、という収穫はあった。一ノ瀬はそいつを見かけたらすぐ連絡するように、あちこちに声をかけていた。この調子だと、男が見つかるのは時間の問題だろう。あとはそれまでゆりが無事であることを祈るしかない。
「……わかったよ」
渋々つぶやく。一ノ瀬はならいい、と言って、静かに空を見上げた。つられるように、その視線を追いかける。べったりした平面的な闇の中に、木星が小さく光っていた。ちら、と一ノ瀬のほうを見やる。
夜を押しつぶすネオンの光に負けまいと、懸命に輝くひと粒の星。それを見上げる一ノ瀬の横顔が、少しだけさみしそうに見えるのは、俺の気のせいなのだろうか。
星なんてずっと見てなかった。そう言ったときの彼の目の上に現れた複雑すぎる色合いを、俺はちっとも理解できない。言葉にすらできない。
(でも──)
ぎゅっ、と手を握りしめた。なあ、と呼びかける。さらさらの髪を揺らして、一ノ瀬が俺を見た。おしとやかで可憐で儚くて、でも本当は男の表情に向かって、思い切って言う。
「なあ一ノ瀬! いいもの見せてやるよ!」
「え──あっ、おい敬斗⁉」
細い手首をむんずと掴む。戸惑いの声を上げる一ノ瀬を無視して、俺はずかずかと歩き始めた。握りしめた手首は思ったよりずっと骨ばっていて、ちゃんと男のそれだった。
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