──2── 小野塚ゆりの失踪
週が明けて、夏休みが始まった。天文部は二週に一度の夜間観測を行っていて、夏休み中もそれは継続して行う予定だった。
そして、夏休みに入って最初の観測がある日の、午前中。ごろごろとベッドで動画を見ていた俺のスマホから、聞き慣れない音が聞こえてきた。着信を知らせる短いメロディ。
(通話? 美優からだ)
普段、音声通話なんか滅多に使わない。だいたいの用事はラインで事足りるし、喋りたいなら美優の席に行けばいいからだ。
いぶかしみつつも、俺は応答ボタンを押した。電波の向こうに呼びかける。
「よお、どうしたよ。今夜の観測で必要なもんでも──」
「ケイティー、どうしよう! ゆりちが、ゆりちが……!」
「えっ?」
飛び込んできた美優の声は涙まじりだった。一瞬で、ひゅっと背筋が引き締まる。もしかして、ゆりの身に何かあったのか。
「落ち着いて話してくれ。どうしたんだよ」
「さ、さっき、ゆりちのママから電話あって……ゆりち、いなくなっちゃったって……見つからないって!」
「え? いなく、って……まだ朝だろ? 普通に遊びにでも行ったんじゃないのか?」
ぐず、と鼻をすする音。ちがうの、と美優は言った。
「昨日、ゆりちとママ、大喧嘩したんだって。そんで、朝起きたら、手紙があって……もう嫌だ、こんな家には戻らない、って……」
「……なんだ、それ……」
信じられない。あの大人しくて真面目なゆりが、衝動的に家出? 予想外の出来事にただ驚く。美優は涙声で、あのね、と続けた。
「ゆりちのママ、シングルマザーでしょ」
「や、知らねえけど……」
「忙しくてイライラして、そのせいでゆりちと喧嘩しちゃうこと、たまにあったって。でも、夏休み入ってから、急に喧嘩がひどくなって……ちゃんと話さないとって思ってたときに、こんなことになっちゃったって……」
声を詰まらせる美優。なんでも、ゆりの母は今、彼女が行きそうな心当たりを片っ端から当たっているという。真っ先に美優に連絡が行ったのだが、彼女にとっては完全に寝耳に水だったらしい。
「ど、どうしようケイティー……」
電波越しでもわかる震えきった声に、俺はしっかりしろ、と声を強くした。
「俺たちも、できることをするしかない。聞き込みとか、知り合いに電話とか、行きそうな場所を探すとか……俺も手伝うから。な?」
「でも……っ」
通話の向こうの美優は完全に泣きべそをかいている。声は震え、語尾は消えかけ、浅い呼吸は怯えと不安に満ちていて──、
(……なんだ?)
──なんだか、違和感を覚えた。
たしかに、美優はゆりの親友だ。突然家出の連絡が来たら、心配もするだろう。だが、それにしたってここまで取り乱すものだろうか。まるで、ゆりが今にも死んでしまうんじゃないか、みたいな混乱ぶりだ。
俺はせめて美優を落ち着かせようと、わざとゆったりした声を出した。
「大丈夫だって。小野塚はしっかりしてるし、意外ときっちり計画立てて、今ごろ小旅行とか楽しんでるかもしれないだろ?」
「ッ──そんなワケないっしょ⁉ ケイティーのばか‼」
きいん、ととんでもない怒鳴り声。思わずスマホを耳から離す。せっかく慰めたのに、バカとはなんだ。
一方的に罵倒され、苛立つ気持ちはあったものの。美優の様子は明らかに変だった。感情をなだめて、ことさら柔らかい声を作る。
「なあ、美優。いくらなんでも動揺しすぎだろ。もしかして、なにか心当たりがあんのか?」
「そ、それは……」
美優はあからさまに口ごもった。やっぱり。おそらく彼女は〝何か〟を知っているのだ。
俺は沈黙して、美優が話すのをじっと待った。たっぷりした、十数秒の静けさ。痛々しいほどの沈黙の後に、ようやく、押し殺したため息の音が聞こえた。
「……実はね。ゆりち、此倉街でバイトしてたの」
「えっ? 此倉街って──嘘だろ……⁉」
あの、大人しくて真面目で純朴な、取り立てて目立ったところのない、ごく普通の女の子が? いかがわしい夜の街で?
完全に予想外の事実だった。呆然とする俺に、美優が訥々と続きを語る。
「星大好きでしょ、ゆりち。それ、もともと星占い好きから来ててね……『フォーチュンパープル』って占いのお店。親にも学校にも隠れて、占い師としてセラピストやってるの」
「や、待てよ。なんで此倉街に占いの店なんか……てか、なんで占い師やってるだけなのに、親に隠さなきゃいけないんだ?」
意味がわからない。完全に理解できていない俺に、美優がためらいがちに言った。
「だって。占いなんか嘘だもん」
「は?」
「タテマエ? っていうの? 実際は占いじゃなくて、手相見るとか星を教えてもらうとか理由つけて、男の人がセラピストとお話したり、手を握ったりするお店だって」
「な──っ」
絶句する。そんなの、完全にアウトじゃないか。
俺はゆりの姿を思い浮かべた。校則通りの制服、顎あたりまでの黒髪、真面目で純朴な瞳。あまりにもイメージにそぐわない仕事内容に、頭が理解を拒否する。
俺の混乱をよそに、美優がぐずっ、と鼻を鳴らした。
「最初は、普通に占い師の募集だと思ったんだって。でも、バイト始めてみたらそんな店だった、って。うち、何度も辞めたらって言ったんだけど……」
べそべそと涙ぐむ声。俺は納得した。なるほど確かに、美優が心配するのも当然だ。
(此倉街でバイトしてる女の子が、書き置きを残して行方不明……)
ようやく、ことの深刻さを悟る。美優は、ゆりがなにか恐ろしいことに巻き込まれたんじゃないかと思っているのだ。それこそ性犯罪、あるいはもっと──最悪のこと。
情深い美優のことだ、あらゆる悪い想像をしたに違いない。彼女は震えるため息を絞り出すと、ぐっ、と声を強くした。
「うち……探すとこ探したら、此倉街に行く」
「えっ、いや、やめろよ!」
「やめない。だってもし、親戚のとこにも、友達のとこにも、どこにも見当たらないなら……もう手がかりは、あの街しかないんだもん」
「それはそうだけど、でも……!」
それだけは駄目だ。だって女の子なのに。あんなところに行けば、ゆりだけじゃない、美優まで危ない目に遭いかねない。そんなの、俺は絶対に我慢できない。
「よせ美優。あんなとこ、女子が行くもんじゃない」
「でも! だったらどうしろっていうんよ!」
「そうだ、甕岡さんにお願いして──」
「だめだよ! ゆりちのバイトのことなんか、誰にも言えない。なんであんな街を探すのって聞かれたら、どう説明するの⁉」
「それは……」
ぐっ、と手を握る。たしかにその通りだ。
ゆりの秘密は話せない。大人には頼れない。手がかりはあの街にしかない。そして美優には行かせられない。
躊躇したのは一瞬だった。覚悟を決める。俺は息を吸うと、きっぱりと断言した。
「──わかった。俺が行く」
「け、ケイティー……」
「大丈夫だ。俺がかならず、小野塚を見つけてくる。だからおまえは、安心して家で待ってろ。な?」
できるだけはっきりと、少し低い声を作って言う。美優はしゃくりあげて泣き始めた。
「っ……お願い……ゆりちを、ママのところに帰してあげて」
「わかった」
女の子にここまで言われて、なにもできないなんて男がすたる。絶対に、ゆりを連れて帰らなければならない。それも彼女が無事なうちに。
俺は最後に、くれぐれも此倉街には行くな、大人にも喋っちゃいけないと釘を差して、通話を切った。無音のスマホを見下ろす。ぎゅっと拳を握り締め、背筋を伸ばした。
此倉街は夜の街。きっと今から行ったって、手がかりは得られないだろう。捜索は暗くなってからだ。
俺はそっと窓の外を見た。焦る気持ちとは裏腹に、真夏のぎらぎらした健全な光が、アスファルトの住宅街を真っ白く照らしていた。
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