──3── 危機にあらわれたのは

 今にも日が暮れ落ちそうな夕刻。橙の光がまっすぐに差し込む路上で、俺はぐっと立ち止まった。目の前に、大きなゲート。


 でかでかと『此倉街』と描かれたそれは、茜色の夕陽を真正面から浴びて光っていた。けばけばしくまたたくのはピンクとブルーのネオンだ。まだ明るさの残る夕暮れに、いっそ下品なくらい派手な電飾は、不自然に辺りの風景から浮いていた。


 スマホの時刻を見る。六時半。じきに日も暮れる。夜はこれからだ。俺はこくりと唾を飲み込むと、ゆっくりとゲートの内側に足を踏み入れた。


 スニーカーの裏が、汚れきったアスファルトを踏んでいく。俺はきょろきょろとあたりを見回した。


 巨大なゲートの内側は、完全に俺の知らない世界だった。


 立ち並ぶビルの側面にはびっしり看板がひしめいて、そのどれもがお酒や、女の人の気配を匂わせている。行き交う人々は見たことのない独特の空気をまとっていて、なんだかあやしい雰囲気だった。

 アスファルトの地面はゴミやタバコの吸殻、こびりついたガムなんかで汚れている。たまに吹くぬるい風はなんとも言えない、乾いたような饐えたような、甘苦いにおいがした。


(これが、此倉街……)

 まだ入り口付近の、比較的〝安全な〟場所なのに。歩くたび、緊張でどくどく心臓が鳴る。握った手に変な汗をかいていて、自分が怖気づいているのがわかった。けれど、ここで縮こまっているわけにもいかない。


 俺は思い切って勇気を振り絞り、道行く人をつかまえて聞き込みをはじめた。ゆりの名前は出さずに、外見の特徴と、それから占い店の名前だけ挙げる。どんな情報でもいい、なんならずっと昔の話でもいいから、なにか聞かせてくれないか、と。


 けれど、収穫はちっとも得られなかった。それどころか俺が未成年だと知るや否や、誰も彼もが逃げたり、にべもなく追い払ったり。あげく肩を突き飛ばされ、舌打ちまでされる始末だ。一人も相手にしてくれない。


 そうこうするうちに、辺りはどんどん暗くなってきた。夜の街はみるみる明るさを増し、ケバいだけだと思っていた電飾が、華やかなきらびやかさを見せてくる。


 あまり奥には行かないようにしつつ、俺はあちこちを歩き回って、ひたすら聞き込みを続けた。甕岡がいるかもしれないので周囲を警戒しつつ、派手なドレスのお姉さんとか、呼び込みっぽいお兄さんとか、目に付いた人に片っ端から声をかけた。


 何の情報も得られないまま、三十分ほど。俺はあまりに無力だった。こんな夜の街じゃ、未成年なんてやっぱり相手にされないのだろう。そう痛感したときだった。


「あ、こんばんはー。君たち、かわいいね。もしかして、バイトとか探してる?」


 男の軽い口調が耳に入って、何気なく視線を向けた。

 そこには、どう見ても俺と同い年くらいの少女たちがいた。声をかけているのは間違いない、さっき話しかけたとき、猫の子を払うように俺を追いやった男だ。

 思わず顔をしかめる。どうやら、俺が相手にされなかったのは『未成年だから』ではなかったらしい。


(まあ、しょうがないか……相手は女の子だもんな)


 俺みたいな男と違って、女の子はいつだってかわいくて、やわらかくて、素敵な存在だ。どんなバカでも、声をかけるなら俺なんかより女の子にする。当たり前だ。


 だが、こんな街で女の子がバイトしないかと声をかけられるなんて、危ないことこの上ない。それなのに彼女たちは危機感のない顔でにこにこしている。


(大丈夫かよ、あの子ら……)


 ため息がこぼれた。なんとかすべきだろうか。

 勧誘を続ける男を見た。彼はどうやら、未成年を一律で無視しているのではない。無視の理由が年齢じゃないのなら、どうにか食い下がりようはあった。それに、こんな光景を黙って見ているのも寝覚めが悪い。

 俺は意を決して、スニーカーの足を踏み出した。


「……えー。ホントですかあ?」

「そお。時給いいよー。簡単な仕事だし。君たちくらい可愛ければすぐ──」

「あの、すみません!」


 語気を強めて呼びかける。途端、三人分の瞳がくるっとこちらを振り返った。俺を覚えているらしい、男の表情がかすかに引きつった。


「また君? 悪いんだけど今、取り込み中なの」

「すみません。ちょっとでいいんです。どうしても聞きたいことがあって」

「悪いけどこっちにはないんだよね。忙しいの。帰ってくれるかな」

「そういうわけにもいかないんです。ここで働いてた友達が危ないかもしれないんです! 少しだけでも、お願いします!」


 がば、と頭を下げる。歓楽街の喧噪にまじって、男たちの間に、なんとも言えない沈黙が下りた。三人分の戸惑いの気配。


 十秒ほどの、ぎこちない無音ののち。あのう、と遠慮がちな声がした。そろそろと顔を上げる。女の子たちが、引いたような笑みを浮かべていた。


「なんか、ややこしいみたいですし。あたしたち、もう行きますね」

「うん。面倒ごと、やだし。じゃあ」

「え、あ……そ、そう? そうだよかったらこれ、名刺! いつでも連絡待ってるからね」

「はあい」


 苦笑交じりの女の子たちが、逃げるように去っていく。後ろ姿がだんだん喧騒へと遠ざかり、細い手がぽい、と無造作に名刺を捨てるのが遠くに見えた。


 はーっ、とため息が聞こえる。男はがくりと肩を落としていた。気の毒だが、これで女の子たちは無事だ。それに、これでようやく彼と話ができる。


「あの。俺、聞きたいことがあって」

「……」

「邪魔したのはごめんなさい、でも、少しでいいので」


 男は返事をしない。呼び込みのざわめきに紛れて、聞こえていないのだろうか。声を大にして呼びかけた。


「あの! お願いしますッ!」

「……わかった、わかったよ」


 心底うんざりした、という声。だが声音はともかく、言葉の内容はまさに俺の求めていたものだった。目をきらめかせ、ほっと息をつく。男はひらひらと手を振ると、じろりと俺を睨んだ。


「とりあえず、ここじゃなんだ。こっち来い」

「はい!」


 良かった。やっと一人目の情報源だ。

 俺は安堵のまま、小走りで彼を追いかけた。きらびやかな街を抜け、男は迷いなくビルの間の細道に入っていく。ネオンの光がとぼしい裏路地の真ん中で、俺たちはようやく立ち止まった。


 男の背中が、ゆっくりと振り返る。だがその表情はさっきまで見ていた軽薄なそれとは打って変わって、強烈な苛立ちに満ちていた。ぞくり、と嫌な予感がする。


「えと……あの?」

「──テメェなあ。そろそろいい加減にしろよ」

「え」


 流れ出す、聞いたこともないほど低い声。思わずびくりと背が跳ねる。硬直する俺を見て、男ははっ、と低く笑った。


「さっきからウロチョロウロチョロ……そこらじゅうで仕事の邪魔してるって、自覚ねえのか? ねえよなあ? あったらこんなクソみてえな真似、しねえもんな?」

「あ……あの、すみませ」

「ゴメンで済んだら商売あがったりなんだわ。なァ?」


 ガンッ、とすごい音がして、蹴り飛ばされた空のビールケースが転がっていく。ぎろ、と下から睨み上げられて、俺はひくっ、と喉をこわばらせた。しどろもどろになりながら、謝罪の言葉を繰り返す。


「ほ、ほんとすみません。でもその、ちょっと話を聞きたかっただけで。邪魔なんてその」

「ぎゃあぎゃあうっせーなあ、とりあえずちょっと痛い目見とくか。それと財布。出せ」

「いやその、それは──」


 これは──あきらかにまずい。

 どう見ても、〝ちょっと〟では済まなさそうだった。下手したら身包み剥がされて、指の数本でも折られかねない。ひゅっ、と背筋が冷たくなる。


 怖かった。フィクションの中でしか見たことのないシチュエーション。強烈な危機感に指先が震える。咄嗟に一歩後ろに下がる。男が二歩ぶん近付いた。怖い。逃げたい。でも、ここで俺が逃げたら、ゆりが。


(ど、どうしよう──)

 ほとんど逃避のように、せめて美優を行かせなくて良かった、と思った、そのとき。


「──なにしてるんですか?」


 凛とした、涼やかな声がした。



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