追加エピソード その後

 アンネローゼが縁談を受けると決めてから数週間が過ぎ、イシュタリカ子爵家の面々は慌ただしい日々を送っていた。その中でももっとも忙しくしているシャロがぽつりと呟く。


「……まさか、顔を合わせて一分と経たずに婚約を決めてしまわれるとは」

「うぐっ、わ、悪かったとは思っているのよ?」


 ドレスルームで採寸中のアンネローゼが呻き声を上げる。

 通常、求婚の手紙を受け取って顔を合わせたからといって、すぐに婚約を決めたりしない。たとえ移し鏡の異能が目的だったとしても、相応の月日が掛かっただろう。

 なのに、アンネローゼは実質一分と経たずに婚約を決めてしまった。というか、多くの使用人達がいるまえでキスをしてしまった。

 もはや前に進むしかない――という訳で、大急ぎで婚約式の準備が進められている。それの対応に追われた両家の者達は大忙し、という訳である。


「でも、これに関してはお父様も悪いと思うのよね」


 実のところ、ウィードはロベルトが娘の初恋の相手だと知っていた。それどころか、求婚の手紙には、そのあたりの事情が書かれていたらしい。

 その上で、アンネローゼに縁談をどうするのか聞いて来た――というのが真相。


 だから、もしも最初からロベルトが初恋の相手だったと知っていたら、もう少し段取りを経て婚約をおこなっていた……というのがアンネローゼの言い分である。

 だけど――


「……それは、どうでしょうね? あの時点で事実を知らされていたら、お見合いに向かうのではなく、押しかけ女房のごとくに嫁入り道具を持って出掛けていませんでしたか?」

「……そんなこと、ないと思うわよね?」

「疑問形ではまったく自信が感じられません。あと、せめて目は逸らさずに言ってください」


 アンネローゼは沈黙した。


「とはいえ、アンネローゼ様のお気持ちも分かります。まさか、十年も前にたった一度であった相手が、自分をいまも想い続けているなんて、普通は思いませんよね」

「あら、わたしくしは信じていたわよ?」

「……しれっと嘘を吐くのも止めていただいていいですか?」


 幸せオーラを振りまいているアンネローゼは無自覚だが、彼女は婚約が決まってからかなり浮かれまくっている。それに対してシャロがお腹いっぱいという顔をした。

 それからやれやれと言った素振りで頭を振る。


「まあ、アンネローゼ様が幸せなら良いんですけどね。というか、あの王子と結婚しなくて本当によかったと思います」

「……そう言えば、ラインハルト様の噂を聞きませんね?」


 アンネローゼがお見合いに言っているあいだに、彼の噂はあっという間に下火になった。


「あぁ、ラインハルト様のことなら、ウィード様よりうかがっていますよ」

「そうなの? どうなったのか教えてくれる?」

「彼は……旅に出ました」

「……はい?」


 いくらなんでも予想外だと、アンネローゼは瞬いた。シャロはテキパキと採寸をしながら、ラインハルトの噂話を続ける。


「正確には、世界を見て回る旅に出た――という体で、離宮に幽閉されているそうですよ。あまりに体格が変わりすぎて、誰からも認識されないような状態だそうで」


 ヴィオレッタにはビンタをされるしで散々だったものねと、アンネローゼは独りごちる。その独り言を聞いたシャロが、そう言えば――と続けた。


「ヴィオレッタ様は、王子に手を上げたことでお叱りを受けたそうですよ。ただ、ヴィオレッタ様は、『これの何処がラインハルト様なのよ!』みたいな感じで反論なさって、相手も証明はしたくない……みたいな感じで」


 なんやかんやとうやむやになったらしい。


「……そこまで分からない容姿になるって、ちょっと気になるんだけど」

「見てもどうせ面白くありませんよ」


 まあそうかも――と、アンネローゼは肩をすくめた。


「でも離宮に幽閉って、ダイエットでもさせるつもりかしら?」

「かもしれません。ただ、以前はなんでもすぐに完璧にこなしてしまう才能の持ち主だったので、そもそも努力しようとする発想がないようで……」

「ダイエットが出来そうにない、と?」


 アンネローゼの問いにシャロが苦笑いを浮かべる。


「いままでそつなくこなしていたことが出来なくなり、癇癪を起こしているそうで。最悪は旅先で行方不明、ということにされるんじゃないかと、ウィード様がおっしゃっていました」

「……移し鏡、危険すぎるんじゃないかしら?」


 伊達に祝福にも呪いにもなるとは言われていない。こんな効果を、ロベルト様に使ってもいいのかしらと、アンネローゼが少しだけ不安そうな顔をしたが――


「ロベルト公爵様なら大丈夫ですよ」

「……そうね、きっとそう」


 ロベルトのことを思い、アンネローゼは幸せそうに笑った。




 それから更に時間は流れ、アンネローゼとロベルトの婚約式の日がやって来た。といっても、今日はパーティーではなく、誓約書にサインするほうである。一般的には、パーティーのほうが重要だが、移し鏡の異能を持つアンネローゼの場合は事情が異なる。

 という訳で、アンネローゼはエクリプス公爵家に再び滞在していた。


「それでは、こちらにサインをお願いします」


 執事がそう言って、アンネローゼの前にあるローテーブルの上に誓約書を置いた。

 婚約の誓約書には、既にロベルトのサインが書かれている。後はアンネローゼがサインをするだけの状況だが――向かいで見守っているのは黒猫である。

 アンネローゼはその誓約書に目を通しながら、執事へと話しかける。


「……ところで、ロベルト公爵様は頻繁に猫ちゃんになるのですか? その……つまり、予定を立てられないのですか?」

「いえ、普段は第一形態から第二、第三と数日おきのサイクルで変わるので、ある程度の予定を立てることが可能です。ただ、お疲れのときや、寝不足のときにも猫になるらしく……」

「……寝不足?」


 なら、あの日、ロベルトが猫になっていたのは……と、アンネローゼが猫のロベルトを見れば、彼はふいっと視線を逸らした。


(まさか、わたくしと会うのが楽しみで寝不足になった、とか……?)


 想像したら顔が赤くなってしまった。アンネローゼはパタパタと手で頬に風を送り、なんでもないフリで誓約書に目を通す。

 そうして問題がないことを確認すると、猫に視線を向けた。


「それでは、サインをいたしますね」


 猫がこくりと頷いた。

 それを確認して婚約の誓約書にサインをする。最初の十秒、二十秒はなにも起きない。そして一分ほどすると、わずかに身体が熱くなった。すぐにシャロに用意させた手鏡を覗き込む。そこには以前と変わらぬ――否、以前よりも少しだけ綺麗になった自分の顔があった。


「さすが、ロベルト公爵様ですね」


 ロベルトの心が清らかな証拠だと、アンネローゼは頬を綻ばせた。だが、ロベルトの姿はまだ変わらない。呪いには効果がないんだろうかと思い始めたそのとき――

 ぽんと、猫の姿が煙に包まれ、次の瞬間、猫のロベルトは人間の姿になった。

 ただし――猫耳と尻尾が残っている。

 それを執事に指摘されたロベルトが慌てて鏡を覗き込む。


「人間の姿に戻れたのはいいが……なぜ、耳と尻尾はそのままなんだ?」

「移し鏡の効果はなく、呪いの周期で変化しただけ、という可能性はありませんか?」


 アンネローゼが首を傾げる。


「いや、いままでは、第三形態のあとは必ず第一形態に戻っていた。どうやら、不完全ながらも、呪いに対して効果があったようだな」

「では……もう猫になることはない、と?」

「ああ。ありがとう、アンネローゼ。キミのおかげだ」


 不意に抱きしめられる。焦ったアンネローゼがにゃーと叫んだかどうかはともかく。とにもかくにも、ロベルトの呪いは不完全ながらも解除されることとなった。



 そして二人で臨んだ婚約式。

 怪物公爵と、ラインハルトに婚約を破棄された子爵令嬢が結ばれると言うことで、色々と囁かれることとなったのだが、登場した美男美女に一同は押し黙った。

 そうして、その日のうちに二人の不名誉な噂は消し飛ぶこととなる。

 だけど――


「ロベルト公爵様、猫耳と尻尾がっ」

「――にゃんだと!?」


 婚約式の真っ最中に第二形態へと変化することになり、ロベルトは怪物公爵あらため、猫耳公爵として一躍ときの人となった。ただ、美形の猫耳はありだったようで、意外と彼の悪口をいう者は少なかったとも言われている。


 いずれにしても、婚約を果たした二人は共に歩み、やがてはエクリプス公爵領を大きく発展させることになる。アンネローゼとロベルトの二人は領民から末永く愛される領主夫妻となった。

 

                           終わり

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移し鏡のアンネローゼ ~「すべてにおいて平均以下だから」と婚約破棄された子爵令嬢はそのすべてを取り戻し、怪物と噂の公爵様に溺愛されて幸せに暮らします~ 緋色の雨 @tsukigase_rain

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