第45話 終告の兆し




 現実を見たくなかったのか知れない。もしかしたら、少年が読んだスキル書は魔物系ではない、何かの間違いだ。ゼルが新しい力を発現する度にそれは否定され続けてきた。しかし、まだ心の奥底ではそれが真実であると認めることが出来なかった。そんな欺瞞で自分を偽り、行動を鈍らせることは決してなかったが、信じることは許されたはずだ。こんな誰よりも純粋で心優しい少年にそんな不幸が降り掛かっていいはずがない、その原因が自身にあるが故に、セリアはずっと苦悩し続けてきた。そして、今、その微かな希望は粉々に砕け散った。


 巨大であったキメラの身体が子犬に見えるぐらいの大きな存在が地下室を圧迫している。大気が膨張し、空間が軋んでいると錯覚するほどの圧が地下室を支配した。捕食者として絶対強者の位置にいるはずのキメラが明らかに怯えている。スキル『魔物使い』の『使役』さえ瞬間的に無効にする生物の頂点に君臨するドラゴンは金眼に生を宿した。


「ルゥガア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァァァァァァァッ!!!!!!!」


 咆哮は暴風を伴って全てを威嚇した。立つことさえ困難だ。キメラはその巨躯を使いペトロイデス司祭長を守っている。セリアは瞼を開き続けることさえ困難だったが、何とか踏ん張り、耐えた。


「ゼルッ!!!」


 セリアの呼びかけにドラゴンは応じなかった。ドラゴンはただキメラを見つけている。キメラの影から現れたペトロイデス司祭長は目を見開き歓喜した。


「ド、ドラゴンッ!!!ハハハハハハハハッ!!!ま、まさか、ドラゴンだったとは!素晴らしい、素晴らしくすぎるッ!!!―――ッ!」


 ドラゴンはペトロイデス司祭長の語りなど意に介していなかった。大きく開いた口から炎のブレスを吐き出した。ペトロイデス司祭長は急ぎキメラの身体に隠れ、キメラは蝙蝠の羽で風の障壁を作る。風と炎がぶつかり、大きな爆風を生み出した。ブレスはドラゴンにとって、くしゃみほどの力しか宿っていなかったが、爆風でキメラの蝙蝠の羽はボロ雑巾のようにぐちゃぐちゃになっていた。


「ま、魔回復ッ!」


 紫色の靄がキメラを包み、羽を修復していく。しかし、先程の戦闘の時より治りが遅い。ペトロイデス司祭長がスキルを酷使し過ぎて、力が弱くなってきたのか、それとも、何気ないドラゴンのブレスが先程のゼルとセリアの猛攻を軽く超える威力があったのか、どちらにせよ、キメラは当初の生き生きとした活力を感じさせないほど弱っていた。


「キメラよ、広さを活かしなさい。あの巨躯です、ドラゴンはこの空間ではまともに動けないはずです。さぁ、行けッ!」


 何とか原型を取り戻した蝙蝠の羽を羽ばたかせ、キメラは風魔術で発生させた小竜巻を伴い、ドラゴンの側部に回り込もうとした。瞬間、ドラゴンの金眼が動く。全知を宿した瞳から逃れる術はない。首だけを動かし、キメラに噛みついた。小竜巻など全く意に介していなかった。ドラゴンにとっては路傍で舞うそよ風にも等しい。


「ガアアアアアアアアアァァァァァァァ!!!!」


 キメラがドラゴンの口の中で悶え苦しんでいる。体長五メートルは優にあるキメラを一噛みしているドラゴンがどれだけ異常な大きさであるかを物語っている。


「魔改造ッ!魔回復ッ!」


 ペトロイデス司祭長が必死に叫んでいるが、キメラがドラゴンの口から抜け出せる気配がない。スキルの恩恵なのか、辛うじて生きているが、それも時間の問題に思われる。抵抗が弱まると、グッとドラゴンは噛む力を強めた。微動だにしなくなったキメラからは夥しい量の血が流れていた。


「ハハッ!わたくしが苦労して手塩に育てたキメラを一瞬で屠るとは………流石はドラゴンです。欲しい、何としても手に入れたい」


 切り札であるはずのキメラが死んでも、余裕を見せているペトロイデス司祭長にセリアは斬りかかろうとした。


「司祭長ッ!貴様の思惑もここまでだ!ここで確実に討つッ!」


 セリアの斬りかかりを寸前で飛び込んできたスケルトンジェネラルの直剣が受け止めた。ペトロイデス司祭長は他の檻から魔物を放っていたのだ。手早くスケルトンジェネラルの攻撃をかい潜ったセリアだったが、次々とペトロイデス司祭長との間に魔物が割り込んできて、遠のいていく。


「卑怯者めッ!逃げるかッ!」


「落ち着なさい、セリア・バルムスタ。今は彼を手に入れるのを諦めて、身を引きましょう。キメラの使役にも手こずった今のわたくしではあのドラゴンを一朝一夕で使役することは不可能です」


「逃げるなッ!貴様の犯した罪は決して許されるものではないぞッ!」


「今の貴女には吠えるぐらいしか出来ないでしょうが、いいのですか?彼を放っておいて?まだ、暴れ足りないように見えますが………あぁ、それとギメス会には彼のことは報告しませんので、安心して下さい。まぁ、ギメス会の連中にどうこう出来るとは思えませんがね。フフフ、何と素晴らしいことか、ドラゴンに出会えた奇跡を神に感謝です」


 ペトロイデス司祭長の言葉で後ろを振り向いたセリアは改めて戦慄した。赤黒い鱗に覆われたドラゴンは噛み殺したキメラを吐き捨て、再び咆哮を上げていた。地下室から逃げようと階段へ向かうペトロイデス司祭長と、自分の所為でドラゴンに成ってしまった少年、どちらを優先にすべきか逡巡したセリアはドラゴンの元へ急いだ。


 口惜しい、大罪を犯したペトロイデス司祭長を取り逃がすのは悔しすぎるが、ゼルをこのままで放っておくことなどできない、セリアの頭の中は色んな考えと感情が駆け巡りぐちゃぐちゃだった。何故、どうして、あの時冷静であれば、いや、そもそも………


 ドラゴンを見上げれる位置にまで来たセリアは必死に叫んだ。


「ゼルッ!聞こえるかッ!私だ、セリアだッ!頼むから正気を取り戻してくれッ!」


 巨頭から覗く金眼がセリアを見下ろす。喉を鳴らし、うめき声を上げる。それすらも腹の底に響く圧があった。ドラゴンは女騎士をセリアと認識していないようで、前足を振り上げセリアへと振り下ろした。


 攻撃の予備動作で、咄嗟に飛び退ったセリアは困惑した。呼びかけに応じず、敵として認識されている、どうすれば………セリアはドラゴンに成った少年を止める術が思いつなかった。当然の話である。そもそも魔物化阻止の旅の途中であり、まだスタートラインにすら立っていなかった。その準備段階で、少年を止める方法などあろうはずがない。


 セリアは絶望で目の前が真っ暗になる思いだが、諦めるわけにはいかない。力と速度を兼ね備えたドラゴンの攻撃は躱すのは至難の技、ましてや、正面から受け止めるなど論外である。しかし、ドラゴンの攻撃速度は脅威的だが、まだセリアの方が速さに関しては分があった。セリアは巧みな剣捌きでドラゴンの攻撃をギリギリで受け流しつつ、必死に少年へ呼びかけた。


「ゼルッ!頼む………私の声を聞いてくれッ!」


 必死に叫びつつ、セリアは少年を傷付けまいと細心の注意を払って攻撃を受け流していた。どんな鉱物よりも硬い竜の鱗ドラゴンスケイルを持つドラゴンは容易には傷つかないが、それでもセリアは少年を不要に傷つける自分を許せそうになかった。


 攻撃を躱し続けるセリアだが、心に迷いが生じればそれだけ身体の動きを鈍くする。着地の際に地面に転がっている小石群に足を取られ、転倒した。戦闘中に足場が悪くなることは良くあることだ。普段であればそんな愚行を踏むことのないセリアだったが、精神の乱れは身体の動きの乱れに繋がった。


 即座に起き上がろうとしたが、目の前までドラゴンの前足が迫っていた。避けきれないと感じ、細剣を構えるセリアだったが、前足は直前で軌道を逸し、セリアの目の前の地面を抉った。砂煙の間から見えるドラゴンはうめき声を上げている、セリアにはそれが必死に魔に抗っている少年の姿に見えた。


「ゼルッ!君は誰よりも心優しく、強い意志の持ち主だ。だから………そんな魔に何かに負けないでくれッ!」


 ペトロイデス司祭長の発言を引用したくはないが、強き肉体的と精神的は魔に抗うことが出来る、なら、少年は誰よりも強い、魔に負けるはずがない、根拠の薄い自信だが、セリアは信じることしか出来なかった。信じることは美しきことであると同時に、何も出来ない自身への無力さから来る虚無感を伴う。


 うめき声を上げていたドラゴンは次第に大人しくなり、頭部を地面へ垂れた。凄まじい量の蒸気がドラゴンの身体から噴出し、身体全体が見えなくなった。蒸気の霧が晴れた頃にはそこにはドラゴンの姿はおらず、裸の少年が倒れていた。セリアはすぐに駆け寄った。


「ゼルッ!大丈夫か?しっかりしろッ!」


 キメラにやられた外傷は見当たらない、ただ、意識を失っているだけのようだ。少年はセリアの呼びかけにゆっくりと目を開いた。良かったと安堵するセリアの顔はもうぐちゃぐちゃであった。


「どう、したんです、か………セリアさん、そんな顔して、いつもの貴女らしくない」


「馬鹿か、君は………こんな時まで暢気なことを………本当に、良かった………」


 セリアは急いで少年を抱え、地下室の脱出を試みた。戦いの余波から地下室が崩れかかっている。階段に向かう途中に檻を隠していた布で少年を覆い、階段を駆け上がった。


 地上の屋敷は燭台から引火した炎に包まれていた。階段を抜けたセリアは窓を突き破り、何とか外への脱出に成功した。屋敷を離れるセリアの背後では閑静な住宅街に似つかわしくない悲鳴が響いている。今はペーシの聖騎士団に任せるしかない、後ろ髪を引かれる思いのセリアだが、今の状態で教会関係者に会うわけにはいかない。


 様々なことが起こった夜を振り返り、何も解決していないことに釈然としない気持ちだったが、とりあえず、少年が無事で良かった、とセリアは安堵した。しかし、これはまだほんの始まりでしかなかった。

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