第49話 弱き心、強き決意




 風が止んだ。小高い丘には常に風に晒されている。それが止んだ。常ならざることは不吉の予感でもあった。


 セリアはゼルの様子を今日もまた見に来ていた。すでに習慣と化している。大量の水と食料を抱え、週に最低一回は立ち寄っていた。ゼルに何度も頻繁に来なくていい、と言われたが、足を運ばずにはいられなかった。


 それは使命の為であり、約束の為でもあったが、セリアの心がそれを望んでいたからだ。途轍もない罪悪感が大半を占める中、確かに純粋な想いも混じっていた。


 廃屋と呼ぶにはあまりにも酷い、ただの瓦礫と辛うじて積み重なっているレンガの外壁だけの場所が今のゼルの住処だ。人が住むより獣の住処と呼ぶ方が相応しいほどに荒れている。何もない森の目印としては良いが、セリアはそれを見るたびに荒んだ景色と自身の心情が同化した。


 少年の身を案じているのは事実だが、同時にどの口が言うか!と叫び出したくなる衝動に駆られる。セリアはナントを離れる際に会話したジャンドゥ・バルムスタ枢機卿、父の言葉を初めは聞き間違いかと思った。しかし、聞き間違いでもなければ、すぐにそれが必定であると理解できた。


「………セリア、君が必ずあの少年を最期まで見届けなさい」


「はい、必ず魔物化阻止を方法を見つけます」


「見つからなければ………その時は、必ず君の手で確実に彼にとどめを刺しなさい。ドラゴンに成るその前に」


 優しい父の顔ばかり見てきたセリアにとってそれは衝撃的な言葉だったが、すぐにその意味の重さを理解した。


 もし、ドラゴンをこの世に放ってしまえば、千、いや、万の人間の命を危険に晒すことになる。駆け回る大空から降り注ぐ炎の息は村や町などは一瞬で焼き尽くされ、剣も矢も弾き返す竜の鱗は撃退するにも一苦労するだろう。命の重さは比べられるものではないが、その数は必ずしも等しくない。一人の少年と万の人々、どっちを優先すべきかなど言うまでもない。


 スキル書の入れ替わりの発端であるセリアは、人々を魔物の脅威から護る聖騎士団団長として、それは当然の責務と言える。もし、少年の魔物化を防げなければ、ドラゴンに成る前に確実にその手でとどめを刺し、その目で少年の最期を見届けなければならない。


 枢機卿の言葉、少年の覚悟、女騎士の使命。それら全て一致しているなら何も躊躇うことはない。ただ、人間の心はそう単純にできてはいない。


 セリアは小さな森を抜けたが、いつも見える景色は様変わりしていた。元々原型を保てていなかった廃屋は脆くも外壁が崩れ、これ以上壊れようがないほどに破壊されていた。遠目でも判るほどの巨体の影がガレキの中心に立っている。心がざわつくのを感じたセリアは手に持っていた荷物を投げ捨て、一目散に走った。


 近づくに連れてあの日の情景が浮かんできた。山と見紛うほどの巨体にはそれに相応しい大きな翼が生えている。首と尻尾を含んだ全長は目測では測りきれない。少なく見積もっても二十メートルはある。人智を超えた大きさだ。口から覗かせる牙は何者をも砕き、鈍重な爪の先は鋭利に尖り、全てを引き裂く。赤黒い鱗に覆われたドラゴンはあの日見た少年と同じだった。セリアが安い挑発に乗ってしまったが為に、少年は魔物化した。そのきっかけは間違いなくあの日だ。ドラゴンの足元まで辿り着いたセリアは唇を強く噛んだ。


「ゼルㇽㇽㇽッ!!!」


 叫び声は稲光によってかき消された。空も泣いている。この悲劇に涙している。しかし、女騎士に悲しむ権利などない。全ては彼女から始まり、彼女が終わらせるのだから。


 セリアは覚悟はしていたはずだ。初めからこれが一つの結末だと、一つの選択だと判っていた。判っていたはずなのに、覚悟を決めていたはずなのに、現実を目の前にすると心はこんなにも脆い。


 女騎士は祈ることしか出来なかった自分自身が堪らなく許し難かった。どれだけ藻掻いても糸口すら掴めない現状に全てを投げ出したくなった。それでもそうするわけにはいかなかった。大河の渦に巻き込まれた木の葉は流れに身を任すしかない、しかし、藻掻くことは出来る。セリアは決して諦めたわけではなかった。しかし、結果が伴わなかった。酷薄な現実はそれが全てだ。


 ドラゴンを見上げるその瞳は震えていた。恐怖からか、或いは、悲しみからか、情けなさからか、女騎士は不思議と恐怖を感じていなかった。すでにドラゴンに成った少年を殺すには戦わなければならない、この絶対強者と呼ばれる存在と。


 死ぬかも知れない、しかし、畏怖の念は抱くものの、純粋な恐怖はなかった。それはこのドラゴンの正体を知っているからだろうか。


 地面に散らばる少年の荷物。何か一つでも持ち帰らなければ、目の前に凶悪な魔物が居るにも拘わらず、セリアは片膝を突き、布の背負鞄に結ばれている小さな金属の御守を引き千切った。裏には少年の名と洗礼の父として、バルムスタ枢機卿の名が彫られている。


 旅立ちの洗礼を受けた者は洗礼の証と旅の無事を祈って霊符が与えられる。大抵はゼルのように荷物に紐で括り付けているケースが多い。そうすることに依って、後続の探索者に見つけられ易いようにする。家族の元へ訃報を知らせる為に。何とも皮肉なものだ。


 セリアはそれを大事に内ポケットにしまって、たちあがった。戦わなければならない、セリアは細剣を引き抜き、正眼に構える。終わらせよう、君の覚悟に恥じぬように。


 全てが巨大、規格外の巨躯が動いた。首をもたげるように、フワッと地面へ頭を垂れた。セリアの目の前には太い首が横臥している。


「―――ッ!君はどこまで………」


 静かだ、静かすぎる。まるでこの世に女騎士とドラゴン以外ほどの辺りは静寂さに包まれている。それは巨悪なドラゴンがあまりにも無防備な姿を晒しているからだろうか。


 女騎士は死ぬつもりだった。ドラゴンと戦って生きて帰れるなどと思ってはいなかった。その強さは目の当たりにしている。ドン・ペトロイデスのスキル『魔物使い』の恩恵があって苦戦したとはいえ、その苦戦したキメラを一瞬で屠っているのだ。今のセリアとの実力の差は明白だ。それに、自分だけおめおめと生き残れるはずがないじゃないか、決意は決死の覚悟でもあった。


 しかし、それがどうだ。目の前には無防備なドラゴンの首が横たわっている。どれだけ硬い竜の鱗を以てしても、セリアほどの強者の全力を受けて無事では済まない。


 それは少年からの優しさだった。まだ自我が残っているのかは判らない。しかし、それしか考えられなかった。


 セリアは細剣を大きく振り上げた。剣身に眩いほどの光が集束していく。柄を握る両手に無意識に力が籠もる。集束した光はまるで夜が明けたように辺りを照らした。


 ―――一振万閃いっしんばんせん


 文字通り、一振りに万の閃光を迸らせるセリア・バルムスタ最大の奥義。万に及ぶ光の斬撃はどんなモノでも一撃で破壊する。その代わりに溜めが長く、実戦では使い勝手が悪い。しかし、今のシチュエーションは絶好の機会だ。


 決死の覚悟は軽くあしらわれ、目の前には拓けた未来が広がっていた。この一振りを振り下ろせば全てが終わる。これまでも苦労も多少は、報われるだろう。


「………私は、私は………っ」


 このドラゴンの首を斬り落とせば全てが終わる。ナントへ帰ってまた団長の公務に戻る。敬愛する父と信頼する部下達に囲まれて、また充実した日々が送れる。日常に帰れるのだ。多少の罪悪感に苛まれる日はあるだろうが、魔物から人々を護ることで誤魔化せる。罪は無くならないが、償うことは出来る。


 それでも、振り上げた両腕が堅く固まって動かない。両手は痛いほどに柄を握り締めていた。


「恨み言の一つでも言ってくれれば………」


 どれだけ楽だっただろうか、決して楽になりたいわけじゃないが、この一振りを振り下ろす一助にはなった。罪を罪と思えたなら、その業を背負うことに躊躇いはなかった。


 神がいるなら問いたい気分だった。この少年がいったい何をしたと言うのだ。


「………どうして、なんだ………」


 気が付けばセリアの美しい双眸から涙が溢れていた。それは冷たい涙。物心付いた頃から泣いた記憶はない。騎士見習い時代のどんなに厳しい訓練でも涙どころか弱音すら吐かなかった。どれほど過酷な任務でも決して諦めなかった。命の危険がある魔物と対峙しても、一歩も引かず臆さなかった。女騎士には簡単に弱音や涙を見せるほどヤワではない自覚があり、自信があった。


 それがどうだろうか、過去のどの状況と比べても今の状況は恵まれている。只々ただただ、全力で剣を振り下ろすだけでいいのだ、これほど簡単なことがあるだろうか。


 ギリっとまるで水風船を割ったように、弾力のある唇から鮮血が零れ出た。奥歯は力が入りすぎて、もはや悲鳴を上げている。それでも、セリアの両腕は頑なだ。


「………これが正しい道なんですか、聖騎士が目指す正義なんですか、ティティリアさん………」


 聖騎士として、目標となる人物は遥か遠く、まだまだ追いつけない。しかし、いつの日にか、そんな日を夢見て邁進し続けてきた。そこに辿り着く為にはこれも必要なことなのか、頂きに到る道程はこれほど迄に険しいものなのか、無垢なる少年の血でこの手を染めなければならない程なのか。


 ―――僕は貴女に出会えて良かったです。


 何度も女騎士の脳裏を駆け巡ったゼルからの贈り物。セリアも同じ気持ちだ。しかし、そんなことは決して口には出来なかった。


 セリアに出会わなければ、少年は今も順調に探索者としての道を歩んでいたことだろう。仲の良い両親と可愛い妹に囲まれ幸せな生活を送っているはずだったのだ。多少の困難があろうと全てを乗り越えるだろう、セリアは少年の芯の強さを知っているのだから。


 出会わなければ、あの時、スキル書が入れ替わらなければ、少年の未来が失われることはなかった。セリアの心の後悔は怨嗟の如く鳴り響いてた。しかし、同時に出会わなければこんなに素晴らしい少年を知ることもなかっただろう。


 真っ直ぐで、どこまでも純粋。すこし間の抜けた所もあるが、たとえどんなに小さな助けの声も聞き漏らさず、躊躇いなく、一歩を踏み出せる勇気ある少年。礼を言いたいのはこちらこそだ………


 ―――


 ―――ありがとう、さようなら………


「ぅぅうああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」


 誤魔化しに似た叫びで、振り上げていた腕を一つの線で結ぶ為に心を押す。始点から終点はあまりに近くて、遠い。いけッ!やれッ!終わらせるんだッ!渾身の想いを神は聞いてはくれなかった。


 ―――カラン、カラン………


 細剣の軽さを表すように、弱々しい金属が弾ける音が聞こえた。セリアの両手は空を握り、閃光は闇に消えた。震えている、女騎士は心から震えていた。


「出来ない………私には出来ない。君を殺すことなんて………私にはできないよぉぉぉぉ」


 幼き少女が泣いている。本人の記憶にさえないほどの幼き日。まだ、養父に引き取られる前のことは在りし日の記憶として残っていない。真っ直ぐ生きるにはあまりに酷薄な現実。ならば、少しでも強くならなければ。誰もが幼き日々に感じる想い、そして、安易に決意する。その先に更に残酷な現実が待ち受けているとは知らずに。


 時が動きだした。静かに最期を迎えようとしていたドラゴンは身体を大きくブルっと震わせ、巨体を持ち上げた。しなる首を扇に描き、空高く咆哮した。怒りか、悲しみか、それとも蔑みか。ドラゴンはそのまま空高く飛び上がり、闇夜の空に消えていった。


「すまない、ゼル………君の覚悟を侮辱した………こんな心の弱い私を―――」


 許してくれ、とは言葉が続かなかった。言葉で許されてたとしてそれで満足なのか、残念だけど、よくやった、と言われて果たして自分自身が許せるのだろうか。


 許せるはずがない。少年の未来を引き裂き、あまつさえ、死を受け入れていた覚悟まで侮辱したのだ。どれだけ努力していたとしても、何も結果が伴っていない。甘えるなッ!少年の高貴な精神に比べて、何と醜いことか。


 女騎士の瞳に生が宿った。狂気に満ちた瞳が揺れている。芯を貫き、何かを成し遂げるには狂気は必須だ。聖人と狂人は正に紙一重なのだから。少年の偉大さに近づく為に、セリアは一歩踏み出した。


「ゼル、必ず君との約束を果たしてみせる。だから………待っていてくれ」


 迷いが晴れた心があれば、征く道は自ずと浮かび上がってくる。後は真っ直ぐに進むだけだ。


 廃屋のガレキは今や粉々になり、すでに面影はなくなっていた。一つの時代が完全に終わった証拠だ。なら、新しい時代を始めよう。人々は昨日も生き、明日も生きるのだから。


 


 




 


 


 

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