第10話 魔物




 カチャっとカップと受け皿が擦れる音がした。まだカップに残っていた紅茶をセリアは口にしていた。それ、さっき髪の毛が浸ってましたよ、とは言わなかった。そんなことを言っている場合ではない。


「ふぅ、それにしても、さっきから私ばかりが焦って、君が焦っていなかった理由はそれか………そんなにマイナーな話ではないはずだが」


 紅茶を飲み干したセリアは幾分か落ち着きを取り戻したように見える。


「いえ、知りませんでした。でも、スキルリセット書は確かにあるでしょ?何故魔物系だけはリセットされないんですか?」


「それは判らない。確かに君の言う通り、スキルリセット書は存在するが、それは職業系と技系にしか効かない。まだ全部のダンジョンが踏破されたわけじゃないから、今後出てくる可能性はあるが、今の所は確認されていない」


 知らなかった。スキルリセット書があるから、そこまで大した問題じゃないと考えていた。しかし、事態は少年が思っていたものよりずっと深刻だった。


「しかし、まったく、君も能天気だな。探索者組合とダンジョン教会が魔物系のスキル書を厳しく取り締まっているし、予想できそうなものだがね。魔物系にも効くスキルリセット書があれば、ここまでみんな躍起になっていないよ」


 少年は女騎士の話を半ばうわの空で聞いていた。魔物になるって、どうなるんだろう。そうなれば、もう両親にも妹にも会えないだろうか。人が魔物化した末路は何となく知っていた。


「事は君が思っているよりずっと深刻なんだ。ダンジョンの中の魔物は決して外に出ない。なら、何故外界に魔物が生息していると思う?君もこの話は多少知っているんじゃないか?」


「………元人間」


「………」


 スイッチが入ったように喋り続けていたセリアは押し黙った。少年の真剣な雰囲気に飲まれたのだろう。眉が苦しそうに曲がっていた。


「魔物の始祖を辿れば、それは全て人であると、どこかでそう聞きました」


「そうだ。今いる全ての魔物ではないが、元を辿ればそれは全て魔物系のスキル書を読んだ元人間だ。そこから次世代を作り、数を増やしている。どうやって数を増やしているかは解明されていないがね………」


 さっきまでの呆けた雰囲気はどこへいったのか、少年は押し黙り、ずっとテーブルを見続けた。


「すまない、君があまりにも悠長に構えているから、つい………君は私の部下でも何でもないというのに」


 女騎士もつられるように目線下げ、言葉が続かなかった。重い空気が部屋を包み込んだ。本当に個室で良かった。他人が居たら息が詰まっていたであろう。


「ドラゴンですか………カッコいいですね、スケルトンやマッドラッテじゃなくて良かったです」


 スケルトンやマッドラッテは半年間斃し続けた相手だ。虫を殺しすぎて、虫になるって昔話があったことを思い出す。少年はその物語みたいにならなくて良かったと思った。


 不意に顔を上げ、話し始めた少年にセリアは目を丸くして驚いた。ゼルの表情に悲痛な色はほとんど感じられなかった。


「………君という奴は、まったく………そうだな、まだ悲観する必要はない。君が読んだスキル書は魔物系じゃないかもしれない。ブローカーのただの戯言とも考えられる。どうだ、身体に変化や違和感は感じないか?」


「違和感ですか?うーん、『光の戦士』だと思っていたから、今日の探索はかなり違和感があったのですが………そうじゃないと考えると特に感じませんね。力が以前にも増して強くなったぐらいですね」


「力の向上か。それに該当するスキルもあるにはあるが、まだ情報が少なく、判断するには難しいか………」


 顎に指を添えて思案顔のセリアは独り、ブツブツと呟いている。少年よりは物を知ってはいるのだろう。とりあえずは、女騎士に任せるべきだ。


「そうだ!『光の戦士』と思って探索していたのだろ?なら、武器の扱いはどうだった?上手く扱えたか?」


「いえ、それが全然でした。途中からは武器が壊れて、手で魔物を殴っちゃいました」


「拳か………『拳闘士』の線も考えられるな。うん、よしッ!」


 顔を上げ、少年を見つめる瞳は透き通っている。何か思いついたのだろうか、ゼルは魔物化する以上ではないにしろ、くすぐったい程度の嫌な予感がした。


「明日、私とダンジョンに潜ろう。そこで君が読んだスキル書の内容を見極めさせて欲しい。団長としての公務も一段落した所だから、丁度良い。ヨシッ!決まりだ」


 嫌な予感ほどの内容ではなかった。ダンジョンに潜ること自体は反対でもないし、寧ろ、歓迎すべきことだ。嫌な予感というのは、セリア・バルムスタの強引な性格の方だったのかもしれない。


 

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