閑話:イスラ視点 春の君
鞍を外して、白い飛竜の尾を叩く。
合図を受けた白い飛竜は、ゆったりと歩き私から十分な距離を取ると、助走を付けて夜空へと飛び上がった。
王城では竜舎に入れるが、神殿では飛竜を放し飼う。
人間が作る竜舎などより、よほど飛竜の好みに合う岩場が、神殿周辺には多いのだ。
離れている飛竜を呼ぶ時は、竜笛を吹く。
笛といっても指輪の形をしているので、これが竜笛だと判るのは飛竜騎士ぐらいだ。
……やはり、気に病ませてしまいましたね。
アゲート王の口を塞ぐことなど、誰にもできない。
おそらくは、カーネリア姫であっても不可能だろう。
だがそのせいで、カーネリア姫の耳へは故意に入らないようにしていた事実を、知られてしまった。
銀髪を持たない王族男児は、生贄として飼育されている、と。
……飢えもなく、寒さも知らず、殴られることもなく育てられるのですから。
王族女児であっても、その年の収穫によっては飢えを知る。
寒さからは守られるだろうが、躾と称して殴られることもあった。
これが平民ともなれば、普通のことになる。
飢えも寒さも暴力も、すぐ隣に存在し、ふとした瞬間に襲い掛かってくるのだ。
王族男児には、それがない。
常に安全で、温かく、食事が優先的に用意される環境にいる。
そんな最上の環境で育成さた彼らに、役に立ってもらうことにどんな心理的抵抗があるのだろうか。
捧げ方にしても、無垢に育てあげた生贄に恐怖といった感情など与えないよう、最大限に気を遣う。
香と酒で酩酊状態にし、恐怖も苦しみも感じることなく神の下へと送られるのだ。
自分の物心がついた頃から数えて、まだ一度も高貴な生贄は捧げられていない。
物心がつく前には二年連続で捧げられた時もあったそうだが、そんな年は稀だ。
ほとんどの王族男児は、生贄という役割を果たすことなく成人を迎える。
……?
誰も高貴な生贄になっていない。
そう記憶を探ったところで、脳裏に過ぎる面影がある。
ふっくらと肥えた丸顔に、明るい栗色の髪をした――
「おーい、イスラー!」
ふいに少年特有の高い声に名を呼ばれ、声のした方向へと視線を向ける。
高い石壁の上から、たった今脳裏に浮かんだ人物が手を大きく振っていた。
「……春の君、そのように高い場所へ上がられては、危ないですよ」
世話係は何をしているのか、と問うと、明るい茶色の髪をした少年――カーネリア姫の弟王子――は、悪びれる様子もなく「抜け出して来たから、アイツは寝ている」と答えた。
カーネリア姫が捨てられた弟王子に『
そもそもとして、乳児に名前をつけることからして珍しいのだが、自分が提案した『番号』というものは、それほど異質なものではない。
この『春の君』と名付けられた王子も、区別のために付けられた名だ。
春に生まれたから『春の君』。
今は他に春生まれの王子がいないことから、ただの『春の君』だ。
夏生まれの王子は二人いるので、それぞれ『夏の一の君』『夏の二の君』と、番号を振られている。
カーネリア姫が聞けば、その名前はおかしい、とすぐに気が付くだろう。
が、この名付けをおかしいと思えるだけの教育を、王子たちは与えられていない。
王子たちに不自由なく与えられるものは、生存に必要なものだけだ。
それ以外は、与えられていないことにも気付けないよう育てられる。
……このあたりが、カーネリア姫が同情的になる理由でしょうね。
自分たちからしてみれば当たり前のことなのだが。
異なる世界の常識や知見を得た、というカーネリア姫には、受け入れがたいものがあるらしい。
……見つけてしまったからには、仕方がありません。
本当は、祭司長へとカーネリア姫の近頃の様子を報告に来ただけなのだが。
『大切な』王子が一人で出歩き、しかも高い石壁の上に立っているところを見つけてしまったからには、放置できない。
安全に石壁から下ろし、無事に部屋まで送り届ける必要があるだろう。
……『その時』まで、生きていてもらわなければ困りますし。
そう自然に浮かんだ考えに、違和感を覚えて足を止める。
先ほどもそうだったが、なにかおかしい。
生贄など、もう何年も捧げられていないのだが、確信があった。
この『春の君』は、『役割を果たした』という確信が。
……生きて、いるのに?
生きている人間が、生贄の役割など果たしているはずがない。
文字通り、生きているのだから。
では、誰と勘違いしているのか、と記憶を探るが、やはり近年生贄を捧げる祭祀が行われた、という記憶はない。
……誰が? いつ……?
考えれば考えるだけ、確信は遠ざかっていく。
ただ、『誰が』という疑問に対してだけは、『春の君』という自信があった。
これに関してだけは、揺るがない。
……生贄に捧げられて、生きているはずが……。
生きているはずがないのだが、春の君は今も目の前でのん気に笑っている。
星が綺麗だったから、寝床から抜け出して来たのだ、と。
……王族を捧げるほどの天変地異など、近年は起きていないはずですが……?
いったい、どんな天変地異なら実際に王族男児を生贄として捧げるのか、と頭に叩き込まれた神事の記録を探る。
カーネリア姫は女児という理由で学を授けられなかったが、自分は男児だった。
カーネリア姫に仕えることになる前から多少学んでいたし、姫の『玩具』になってからは、姫の手足となるためにより一層学んだ。
その学んだ知識の中には、膨大な神事の記録も含まれていた。
……姫?
記憶を掘り返していると、ふわりと心に浮かぶ面影がある。
カーネリア姫とも、以前のカーネリアとも違う、それでもやはり同じカーネリア姫の面影だ。
今よりもやつれ、ほっそりとした顔つきの、可憐な面影だった。
……誰だ? いや、カーネリア姫だとは思います……が?
カーネリア姫だとは思うのだが、印象がまるで違う。
今のカーネリア姫は丸みを帯びた輪郭と、白雪 姫子という人格がそうさせるのか、ふんわりとした穏やかな雰囲気をまとっている。
対して、カーネリア姫であって、カーネリア姫でないはずの面影は、冷たい雨にうたれ続けて根腐れを起こす寸前の
すぐにでも根を掘り起こし、雨に濡れない場所へ、水はけのよい地へと移し変えなければ、枯れてしまう刹那の美しさがあった。
……なにか……?
なにかがおかしい、と確信を持つ。
春の君は生きているし、カーネリア姫は丸い。
今夜は弟王子の話を聞いて打ちひしがれていたが、白雪 姫子は成人女性であったと聞いている。
そのうちに自分の心と折り合いをつけて、気持ちを切り替えるだろう。
けれど。
自分の中には、春の君が役割を果たしたという確信と、それがカーネリア姫に関係することだった、という現実にそぐわない靄のような記憶がある。
今日までの記憶は連続して、途切れることなく続いているのだが、その横に違う記憶が平行して置かれているような感覚だ。
……これは、なんですか?
言いようのない気味の悪さはあるが、不思議と不安はない。
あるのは自信と核心だ。
『次こそは』という強い想いが芯となって、胸の内に根付いていた。
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