三日間だけの初恋を。

宮城島 優恭。

第1話

三日間だけの初恋を。


 茜雲あかねぐもから差し込んだ薄明光線が夕空を真っ赤に染め上げ、遊び帰りの小学生達を迎えている。豪炎の如く燃え上がるような夕焼けは、猛暑ほどの熱量はなく、優しい生暖かさを感じさせる。ちりじりとセミの音色が静まっていき、カラスの鳴き声がやけに耳に響いた。


 辺りが薄暗くなるさまを、僕は小さな公園のブランコから眺めていた。


 僕が座っているブランコのそばには、ストロベリーキャンドルと呼ばれる、いちごを逆さにしたような紅の花が咲いていた。本来、夏場には適さない植物だがこの一角にだけ、見事に咲き誇っている。


 種を植えたわけでも、手入れをされてるわけでもないが、毎年この時期になると必ずこの場所にこの紅の花が咲く。


 それは偶然などではなく、二人の心が生み出したほんの少しの幻想。


 町外れにあるたった一つの遊具しかない小さな公園を、ブランコ以外何もなかったこの空間を、僕達は花畑にしてしまった。


 あの夏の日、この公園で、僕が――名前も知らない女の子に、恋をしただけで。

 

 

第一話

 

 

 僕は今、家から徒歩三分ほどの小さな公園に来ている。ここは隣接した雑木林と住宅街の丁度狭間にある、人影を見ないとても静かな場所。それゆえ、僕のお気に入りの場所でもある。


 放課後に遊びに行く場所は、この二連ブランコが一台あるだけの小さな小さな公園。そしてここで一人寂しくブランコを漕ぐのが僕の日常だ。他の皆は友達の家に遊びに行ったり、友達と出掛けたりするのだろうが、放課後に友達の家に遊びに行けるほど僕に友達はいない。と言うか、友達と言えるような人は一人もいない。何故なら、僕は人の視線が大の苦手だからだ。人と目を合わせて会話するなんてここ数年は一度もなかったほどに。


 学校では注目を集めないように気配を殺して過ごしている。授業中にはされないように。テストでは良い点も悪い点も取らないように。体育では良くも悪くも目立たないように。順位は上位でも下位でも中位でもない、本当に中途半端な場所に居続ける。それが僕の生活様式ライフスタイル。これを親に伝えたことはない。もしも病院なんかに連れていかれてしまったら、僕は医師の光らせた視線に耐え切れずに気が動転してしまうかもしれないからだ。もちろん、先に視線について伝えていればそうならないように配慮してくれるのだろう。が、しかし、視線を合わせずに生きてきた人生においてそもそも対人スキルなどあるはずもなく、もはやまともに会話が成立するのかも疑問な状態なのだ。


 これだから僕は友達がいないんだ。目を合わせようとも、声も掛けようともしないやつのどこを好きになれるだろうか。少なくとも僕なら、そんなヤツと友達になろうとは思わない。


 そういう人間なんだ、僕は。とにかく視線が怖い。怖くてたまらない。いつも誰かが僕を見ていると錯覚をしてしまう程に。正直、こんな生活は望んでいない。生き物がいる場所には僕の居場所は無いようなものなんだ。このままではいけない、それは理解しているが何が原因でこうなっているのか忘れてしまった。本当にいつの間にかこうなってしまっていて、治し方がわからないんだ。もしも、この生活がいつまでも続くのならば……死ぬまで続くのならば、早く終わらせてしまっても――と考えてしまうのは、僕が弱いだけだろうか。それに、どこかで聞いたことがある、人生で死ぬ瞬間が一番幸せになれる、と。許容量を超える苦痛に対して、脳内麻薬が多量に分泌した結果、ありえないくらいポジティブになり、ありえないくらい気分が高揚し、ありえないくらいリラックスして、ほとんど痛みを感じない鎮痛効果が一斉に身体中を駆け巡るのだ、と。実際のところこれが本当の話なのかはわからないが、死ぬ間際、もしそれを思い出せたら本当に幸せになれるかもしれない。結局、人間は脳を頼りに生きているから、脳が熱湯だと信号を出したら、例えただの水だとしても火傷してしまうし、脳が大好物だと信号を出したら、例え口にするだけでもはばかられるゲテモノ料理も躊躇ためらうことなく美味しく平らげれるし、脳が重い病気にかかっていると信号を出したら、例え健康体であってもみるみるうちに衰弱して死を迎えてしまうこともある。僕はそういう、人間の思い込みの能力は信じている。〝現実を脳が見ているんじゃない、脳が現実を見せている〟――そう、言うこともできるかもしれない。話が少しれてしまったが、僕の視線恐怖症も似たように思い込みの力、プラシーボ効果から来ている可能性があるとも考えられないだろうか。自分に自信が無く、周りの人間と比べられるのが苦手であったり、その場に馴染めていないと不安になったり、こうであるべきと見定められる空気感を心が認可できずに、それを全て〝視覚が存在するから〟と決め付け、思い込んだ結果、視線を感じることに拒絶反応が出る……というのが今の僕の見解だが、そんな記憶はとうに忘れたので真実は神のみぞ知る。


 そして、できれば家にも居たくない。他人よりは多少気にならないが、家族の視線が嫌なのは勿論もちろん、毎日のように喧嘩している兄姉がわずらわしく、何より嫌だ。家族喧嘩なんて当たり前のことかもしれないが、頻度と理由を冷静に考えてほしい。やれプリンを食べただの、部屋の掃除をしてないだの、洗い物が終わってないだの、歯磨き粉の使い方が下手だの、買ってくる味噌が違うだの、あんたらは夫婦かと。こんなのがもう毎日だ。そのかたわらで母さんは暖かく静観しているし、父さんは「止めてきて」と潤んだ瞳で僕に訴えかけてくる。そんな視線が飛び交うのが嫌で、僕は家を出て公園に逃げ込んだ。


 そうして今日も、僕はここで一人、ブランコを漕ぐ。一人だが、別に寂しくはない。むしろ楽しいとも言えるだろう。僕は本を読むのが好きなんだ。特に、ブランコに揺られながら読む物語は、とても没頭できるから。


 座面に腰を掛け、持ち手の鎖を脇に挟み、胸の前に一冊の本を用意する。あとは、あまり角度を付けない程度に後ずさりし、そっと足を浮かせるだけ。


 ゆったりと流れるブランコで開かれた厚さ〇・一ミリメートルよりも薄い紙に、びっしりと羅列られつした複雑な模様もよう。それが活字だと理解した途端に映し出される実体のない情景。僕以外の誰にも認識されないそれは、薄い紙から広がった、僕だけにしか見えていない世界。この瞬間――

 

 ――僕は海を渡る海賊だ。

 

 ――僕は世界を巡る冒険家だ。

 

 ――僕はみんなを救う英雄だ。


 僕がページを捲るたび・・に呼応して、辺りの季節が、景色が、加速していく。めまぐるしく変化する風景。海が、山が、街がここにある。止まらない指、走り続ける目。少しずつ溜まっていく右手の頁に、何気ない達成感を感じる。集中力が浸かっている。いや、とうに沈み込んでいたのかもしれない。それほどまでの、没頭。どこまでも広がり続ける世界。怪物の住む海域、煌びやかな夜空、荒れ果てた大地。どこまでも、どこまでも続いていく。その先で待つのは、楽園か、それとも地獄か。――見てみたい。その一心で読み進める。心躍こころおどる結末を迎え入れるために。考えるだけであふれてしまう好奇心を、もう止められない。知りたい、見たい、先を、早く、速く――


 ――突然、頭に、金管楽器で殴られたかのような爆音が鳴り響いた。体が跳ね上がるほど驚いて、意識が現実に帰ってくると、僕の世界は手元の一冊の本に吸い込まれていく。爆音の元凶に視線を送ると、防災無線スピーカーが「仕事ですから」とばかりに鐘の音を鳴らし続けており、腕時計を確認すると、二本の指針は午後五時を示していた。


 チャイムが鳴り止み、遠くから子供達の別れと約束の言葉が飛び交っていた。やがてそれも聞こえなくなると、辺りには金具が擦れる寂しげな音だけが響き、前後に揺れる景色は、鮮やかな幻想などではなく、乾いた現実にすり替わっていた。


 ああ、もうこんな時間か。本を閉じ、凝り固まっていた体をほぐすために目一杯の背伸びをする。背中から肩に、肩から腕に、そして指へ。溜まってよどんでしまった力を、一気に放出するイメージで。この瞬間も読書の醍醐味だいごみの一つだと、僕は思う。どれほど幻想が美しくとも、どれほど現実が退屈だとしても、時間はどうしようもなく進んでいく。無常に、冷酷に、どこまでも無干渉で。ならば、何度も明日が来てしまうのなら、何度だって今日を楽しむ。そのためには、日々のちょっとした幸せが大切なのだと思う。朝の占いの結果が気になったり、昼のお弁当箱を開ける瞬間だったり、夜、寝る前に好きな動画を眺めていたり。そうやって何気ない事を、在り来りな事を、当たり前の事を積み重ねて、いつか色鮮やかな現実になるのだと思う。そう信じている。現実にならずとも、せめて記憶には鮮やかに残そうと思う。だから僕は、この背伸びさえ楽しく思う。実際にやってみればわかるが、とても気持ちの良い事なのだ。しかしどうも一度では物足りない、ならば二度目と、僕は再度身体を伸ばす。が、そこでバランスを崩してしまい、後方に頭から横転してしまった。


 ブランコはその性質上、吊るすための紐や鎖を掴んでいなければとても危険な遊具だ。それを理解した上で、僕は手を離した。自信があったのだ。小さな時から遊んでいた遊具だったからと、慢心まんしんしてしまったのだ。寝転がって起き上がる気力もないまま、後頭部に異変がないか触って確かめる。幸い、地面は柔らかい土だったので怪我は無かったようだ。しかし服や髪が汚れてしまい、心の中で反省する。服を洗うのは僕ではなく母さんだ。母さんはこの汚れを見てどう思うだろうか。「中学生にもなって砂遊び?」いや違う「不注意で転んだ?」これも違う。きっと母さんは「いじめられてしまったの?」と涙目で誤解するのだろう。人知れず泣いてしまうような人だ。洗濯の際に、この服だけを手洗いにし、じっと考え込んでしまうのだろう。


 母親にそんな悲しいことをさせるわけにはいかないので、僕は母さんに気付かれないように帰宅し、先に汚れを洗い落として洗濯籠せんたくかごに入れようと決めた。


 体を起こし、髪に着いてしまっていた土を払い落として、着ている一枚のTシャツの首元掴み、勢いよく振り抜いて脱いだ。


 やはり、後ろ身頃みごろの一部が汚れてしまっている。今すぐに落とせる汚れは払ってはみたが、まだ取り除けない土汚れがこびり付いてしまっている。これ以上は洗濯に頼らなければ綺麗にならなさそうだ。


 このまま半裸でいるのも悪くはないのだが、そろそろ涼しくなる時間なので風邪を引いてしまう恐れがある。汚れた服を着るのは少しばかり抵抗があるが、仕方がない。と、そでに腕を通そうとする。


 ――この瞬間、少しも躊躇ためらわずに服を着ていれば良かったのに……と、僕はこの時の自分をしかってやりたい。


「ふぇっ」


 公園の入り口から声が聞こえた。それは聞き覚えのある声で、すぐに振り向くと、そこには顔をりんごのように真っ赤な色に染めて、声にもならない驚愕きょうがくを唇から漏らしている女の子が立っていた。


 ミディアム程の、ふわふわのわたあめのような桃色をした髪をハーフアップにまとめ、朱く染まった顔をおおった指の隙間から瞳をぐるぐると回す彼女を、僕は知っていた。


風花ふうか……?」


「ぁゎぁゎゎ――ふぇっ?」


 ほぼ無意識に僕がそう呼ぶと、彼女はまたもや素っ頓狂な声を上げた。


「――私のこと、知ってるんですか……?」


 風花はまるで信じられないとばかりにしているが、知っているも何も、僕と風花は幼馴染おさななじみだ。

 春咲はるさき風花ふうか――家が近所で昔はよく遊んでいたが、何年か前からめっきり遊ばなくなった。顔を合わせても挨拶すらしなくなる程に。確か喧嘩が原因で遊ばなくなった気がするのだが、具体的な喧嘩内容が思い出せない。思い出そうとすると、頭の中に余計な情報が押し付けられてまともに処理ができなくなる。まるで、この記憶を持つ幼い僕が、今の僕に思い出してほしくないと言っているようにも思えた。


 辺りは静寂に包まれている。涼しげな空気に流されて、温かな深みのある甘い香りが漂ってきた。どこか、今日の食卓に肉じゃがが並べられているだろうと予想してみる。


 しかし、静かだ。視線の先には風花がこちらを向いて立っているが、喋りだす雰囲気も、動き出す気配もない。


 彼女の視線が僕に突き刺さっているせいで、心の震えが止まらない。心臓がバクバクと高鳴っている。しかしその裏腹で、辺りはとても静まっている。


 とても、静かだ。


 …………あー。もしかして、もしかしなくても今僕は会話をいられている状況だろうか。あー。そうだ、そうだろう、きっとそうだ。だって今質問されているんだもんな。どう聞いても語尾にクエスチョンマーク付いていたもんな。そういえば会話って一方的に投げ付けられるものじゃなくてキャッチボールするものだったっけな。うん……まてまてまて女の子との会話なんて一体全体いつぶりだ!? どうして僕は彼女の名前を呼んでしまったんだ!? そんなことしなければこんなに焦る必要はなかったのに! ……いや落ち着け、過ぎたことを気にしても仕方がない。心の中を一旦リセットしてから考えよう。そう、ここは果てしない草原、雲一つない大空。二つを分ける地平線。黄緑と水色の大自然。そうか、何も恐れる必要なんてなかったんだ。あくまでも風花は幼馴染。初対面じゃあるまいし、昔は毎日のように楽しくお喋りできていたじゃないか。今だって普通に話すことくらいできるはずだ。


 ……そうは言っても、身内以外では本当に久々の会話で、言葉があまり上手に出てこないが、どうにか振り絞って腹から声をひねり上げる。えーっと、なんだっけ、確か『どうして私のことを知っているのか』みたいなこと言ってたな。だったら――


「――そ、れは、あぁ、ま……まあ。む、昔、よく遊んでたしさ……?」


 絞りすぎた結果、口から出たのは声にもならない声で、聴く相手はさながら聴力検査でもしている気分だろうが、風花の反応はまたもや信じられないモノでも見ているかのようだった。


「ぁ、本当に、思い出してくれたんですね……」


 風花はその場で静かに涙を流した。僕は慌てて風花に駆け寄り、なぐさめようとする。


「うえあぇ、なんで? どうしたのだだいだいじょぶい?」


 焦ってしまい情けない声がこぼれた。どうして風花は泣いているのだろう。もしかして僕の声が小さすぎて、上手く聞き取れずに悪口に聞こえたのだろうか。いや、しかし風花の反応を聞く限りでは会話に齟齬そごがないとも感じる。ということは聞き取れていたのか、あの極小絞りカス音を。だとしたらとんでもなく耳聡みみざといぞ。でもおかしいな。『思い出してくれた』ってどういうことだろう? 何年も話してないとはいえ、流石に僕も幼馴染くらいは覚えていられる。風花はどうしてそんなことを言ったのだろうか。気になる。気になる――が、一ターンに行動できるのは一回だけなんだ……。僕はもう風花に声を掛けてしまった。それで僕はターンエンド。風花が次のターンを終わらせるまで僕は何もできない。いや、何もできないわけではないが、できれば何もしたくない。自分のターンのはずなのに相手が勝手に攻撃とかしてきたらなんか嫌だよね。日曜朝の魔法少女が変身してる無防備な時にいきなり悪の組織が攻撃してくるのはなんか嫌だよね。メールが送られてきて返信打ち込んでる時に次のメールが送られてきたらなんか嫌だよね。二回攻撃できるのは一部の強敵か魔王かお母さんくらいでいいよね。


 そんなことを考えていると、風花は涙を拭きながら「大丈夫です」と、呟いた。


 他に何かをする様子はない。つまりはターンエンド。僕のターンだ。


 上手な会話をする必要はない。欲しい情報を入手するための会話をすればいい。なるべく簡潔に、けれど湾曲わんきょくしない伝え方で。――さっき言っていたのって、どういう意味? いや、これは相手に聞き返されて話が無駄に長引く可能性がある。なら――『思い出してくれた』ってどういうこと? 僕は忘れていないよ? いや、これは一見正しいようでも、泣いている女の子にいきなり問い質すような真似は、なんだか冷酷で思いやりがない。ならば――ゆっくりでいいから、さっきはどうして、『思い出してくれた』って言ったのか教えてくれると嬉しいな。……うん、これだ。思いやりを感じて、それでいて知りたい情報も聞ける。これだ! これしかない!


 僕は軽く息を整えて、脳内で今決めた言葉達を装填そうてんしていく。……ゆっくりでいいからさっきはどうして思い出してくれたって言ったのか教えてくれると嬉しいなゆっくりでいいからさっきはどうしておもいだしてくれたっていったのかおしえてくれるとうれしいなユックリデイイカラサッキハドウシテオモイダシテクレタッテイッタノカオシエテクレルトウレシイナ。何度も。反芻はんすうする。本番で言葉に詰まらないよう、敢えて言い換えるのなら、ジャムらないようにある程度の勢いを持って射出するために。


 そうして僕は意識という名の照準を風花に合わせる。


 ゆっくりと口を開く。トリガーに指を掛けるように。


 震えながらも、風花に向けた銃口の、引き金を引く。


「――――っ。……っ!」


 声が、出せない。


 体が、少し熱い。


 耳が、多分赤い。


 ……なんというか、この言葉。――口にするのは凄く恥ずかしい!? あんなに完璧だと思ったのに、あんなに綺麗にまとまっていたのに! いや、綺麗すぎて、逆に気障きざったらしいんだ! そうか、これはきっと誰もが言える言葉じゃないんだ。限られた性格の人間しか口にできないようになってるんだ! 僕のはそのセーフティが解除されていなかったのか。それに、逆に優しくさとされる方が苦手な人だっている。その不安で、僕は声に出せなかったのかもしれない。ならもう、僕ができることは――いや、違う。慣れない会話なんてしたから見失っていたんだ。もう答えには気付いていたのに。


 ここは、そう。多分、何もしないのが正解なんだ。


〝果報は寝て待て〟僕にできることはした。あとは風花が泣き止むのを待って、落ち着いて話をしよう。それが今できる最善。まさか久しぶりに話した幼馴染のたった一言で僕がこんなに悩む羽目になるとは。いつもよりも考え込んでしまった。とりあえず、泣き止むまで話を整理するとして――。


「ふっ、風花!?」


 どこからか、また女の子の声がした。これまた聞き覚えのある声で、そちらに振り向くと風花と同じ制服を着た子が全速力で駆け寄っ――


「――風花に何してんのよこの変態――っ!」


 脇腹に、激痛。


 スローモーションに感じる世界で、蹴り飛ばされたことを認識する。数センチ浮いた体がゆっくりと地面に引き寄せられる中、蹴られた原因に気付いた。風花、泣いているんだった。


 それだけじゃない。なんかやけに鋭い痛みだと思ったんだ。


 ……そういえば、僕は上半身裸のまま風花に近付いたんだった。疑いの余地なく変質者だと思われているだろう。


 皮膚以外、何も守りがない、素肌の、肩と背中に、荒い、牙のような、アスファルトが、近付く。


 静かに流れていく地面。衝撃までのカウントダウンは〇・一秒を過ぎた。


 じきに地獄はやってくる。数え切れない擦り傷。弾んだ反動で突き刺さる小石。擦り切れ、食い込み、肉がえぐられる。そうしてようやく止まったとしても、まともに風呂は入れないだろうな。


 想像しただけで、意識が遠のく。死ぬわけじゃないが、死にたくなる程辛い。いや、逆だな。死ぬわけでも何でもないのにこんなに苦しい思いをしなければならないのが嫌なんだ。どうして死なんていう人生最大の苦しみが残っているのに、死にたくなる程の苦しみを何度も味わなきゃいけないんだろう。どうせ最後に皆必ずやるんだからそれ以外は何度も経験したくないのに。

 

 あー、でも、死ぬ瞬間が人生で一番気持ち良いんだっけ?

 

 ツーっと、皮膚細胞が引き裂かれていく感覚が襲ってきた直後、僕は深い眠りに落ちた。



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