第四幕:圷砦と殺生石⑧

 しばらく呆然と辺りを見渡し、絶を見る玉櫛は、目を見開き、顔を大きく歪ませた。それは恐怖なのか、怯えなのか、怒りなのか、悲しみなのか、はたまたその全てか。

 喉が裂けんばかりの絶叫に頭を抱えて蹲る。

「何が?」

 事態が飲み込めない天晴は、自分が取り返しのつかないことをしたと気付いた。しかし、それが何なのかが分からない。

「母上?」

 絶が語り掛ける。

 目の前で蹲り叫び続ける母親に、理解が追い付かないのだろう。

「母上っ!」

 久しぶりに見る母親の顔への嬉しさ、変わり果てた姿の戸惑い。様々な感情が入り混じり、どう処理していいか分からず、声だけが大きくなった。その目から流れる涙は嬉しさか、寂しさか、それとも悲しさか、恐れか。

 張り上げた声が届いたのか、玉櫛の叫びが止まると、ゆっくりと絶へと顔を向ける。

 それは穏やかで、微笑んでいるように見える。

「あぁ、絶やぁ。こんな所におったんですか~」

 場違いなほどにのんびりとした声だった。

「わらわの可愛い絶。可愛い可愛い絶。可愛すぎて……食べてしまいたい」

 目はカッと見開かれ、笑みを浮かべた口元はさらに吊り上がり、そして裂けていく。体は膨れ変形し、身に纏う妖力の密度が濃くなり黒い瘴気へ。後ろに控える白面衆は、生命力を奪われたかのように次々と倒れていった。

「覚醒した、のか?」

 戸惑いを隠せず律が呟く。

 玉櫛の姿は、顔だけでも人ぐらいの大きさを持つ巨大な白毛の大狐へと変わっていた。

「ニエヲクワセロ。モット、クワセロ!」

 大きく開かれた口からは大量の涎が落ちる。

「錬。絶を連れてここから逃げ……」

 言いかけた天晴だったが、玉櫛の尾が周囲を薙いだことで中断した。

 巻き起こる大風は、全てが旋風刃。一帯を切り刻む。

 見極め、何とか難を逃れた天晴だったが、その目の前には玉櫛が待ち構えていた。

「いかんなぁ」

 さすがの彼も不敵の笑みが凍り付いた。

 振り抜かれる強烈な前足を受け止めようと身構える。警戒すべきは爪だけではなかった。玉櫛の白毛は、柔らかそうな見た目に反し、その一本一本が鋭い刃のようになっていた。おまけに纏う妖気の濃さは、玄斎の呪いと同様に体の内部を攻撃してくる。

 さすがに耐え切れない。

 天晴は無慈悲に吹き飛ばされる。

「天晴っ!」

 絶は悲鳴に近い声を上げるが、彼からの反応はない。

「あれは、死んでもおかしくはない」

 気付けば絶のそばに、藤原が立っている。

「そなたっ!」

 絶は怒りの眼差しを向けるが、それだけしかできない。

「手間が省けて助かる」

 そう言うと、藤原が絶を担ぎ上げる。錬が必死に立ち向かうも、あっさり朱槍の柄で薙ぎ倒され昏倒した。

「では、さらば」

「絶様!」

「誰の許可を得て、絶に触ってやがる!」

 全身を裂かれ、血反吐を吐きながら、天晴が木々を掻き分けて前に躍り出る。

「お前、化け物か!」

 藤原はその姿、気迫に圧されて、驚愕の声を発して後ずさる。

 踏み込みもうとするが、玉櫛に割り込まれた。

 藤原はその隙に、背を向けて走り去る。

 追いかけることはできない。玉櫛が邪魔だ。

 歯噛みする天晴は、着物は破れ、頭や体問わず、至る所に裂傷が見られる。しかし、その眼光に衰えはない。

 玉櫛の咆哮が周囲を震わせる。体の芯からの威圧に、大量の妖気の奔流を受け、律がついに崩れ落ちる。

 限界に達した。

 玉櫛の標的が倒れる錬へと移る。涎を垂らし、食らい付こうとするのに、天晴は鞘の下緒を取り付ける栗型を外して飛び出した。

 玉櫛が錬の頭蓋を砕こうと口を開いた時、背後から首に紐が懸けられて引き寄せられる。

 それは無明についている下緒。

 本来であれば、すぐに切れてしまうが、その紐は不思議と切れない、それどころか、酩酊したように力が入らなくなる。

 無明の下緒には、妖の力を抑え込める特殊な祈りをされた麻が編みこまれている。

 天晴は玉櫛を引き寄せると、その剛腕でそのまま巨体を背負い投げして頭から叩きつける。

 犬の悲鳴にも似た声を出し、身を震わせる玉櫛は怒りと狂気に爛々と目を血走らせた。

 だが、天晴の動きは素早い。

 次の行動へ玉櫛が移ろうとした頃には、すでに距離を詰めており、無明の刃が白毛を赤く染める。そして、止まることなく何度も。

 傷はすぐに癒えていく。前足が一帯を薙いだ。

 まともに受ければ、先ほどの二の舞だろう。

 天晴は前足を受け流しながら、深く斬り付ける。

 ただ、流しきれずに天晴の肩が大きく裂けて鮮血が散った。

 痛みに顔を顰めるが、休む暇などない。

 一手、誤っただけで死につながる。

 鬱陶しそうに唸る玉櫛は、口を大きく開こうとする。何かの術を使う気なのだろう。

 そうなる前に、天晴の下緒が彼女の口に巻き付き閉ざすと、引き上げられて上を向かせる。狙うはガラ空きとなった首。

 彼の一閃は、大狐の首を捉える。

(浅いか……)

 斬り込んだ瞬間に理解する。

 思っていた以上に玉櫛の毛は厚く、そして強固だ。

 それでも深く斬り込んだことで、さすがに玉櫛は狼狽え、暴れ出す。

「なんと」

 天晴の口から悪態が漏れた。

 怒りと痛みで混乱した玉櫛は、天晴に捨て身の体当たりを仕掛けたのだ。

 まともに受けた彼は、玉櫛と共に崖から落ちる。

 そして、体に巻きついた縛鎖に絡まり律と錬も巻き込まれ落ちる。


☆   ★   ☆


 崖を落下しながら、玉櫛は身をくねらせて、着地に備えようとしていた。

 妖ならば容易にできる。

 だが、人は違う。これだけの高さから落ちれば、タダでは済まないだろう。

 玉櫛の勝ちである。

 ほとんど残っていないヒトとしての感覚が勝ちを確信させ、ニヤリと顔を綻ばせた。

 しかし、その笑みもすぐに凍り付く。

 妖には似合わない、まるでヒトのように恐怖に見開いた目には、地鳴りのような雄叫びを上げながら落下の速度以上の勢いで降ってくる影。

 天晴だ。

 崖を駆け降り、そのまま玉櫛の懐へとぶつかりながら、無明を突き立てる。

 胸に深々と刺さる刃は心臓を貫いた。

 激痛に暴れる玉櫛と天晴はそのまま落ちて、地面に衝突した。



 どれほど意識がなかったか。

 天晴は崖下の大小さまざまな岩が転がる岩場で目覚めた。

 体中が傷つき痛むも、何とか動ける。

「ここは……この世か?」

 周囲を見渡し、崖下であることが分かると、無明の鞘を杖代わりに立ち上がる。

「よく生きてたなー。福徳福徳」

 頭上を見上げ、自分が落ちてきた高さを確認して呟く。

 落ちる際に無明を手放してしまったが、一見して周囲には見当たらない。

「あ、あの天晴さん」

 遠慮気味に小さな声が聞こえ振り向くと、錬が怯えた様子で立っている。

「おお! お前も生きてたか。互いに悪運が強いな」

 先ほどまでの気迫など感じさせないニカッとした笑いを向ける。

「律様が、庇ってくれたんです。それで、手を貸してください」

 落下の際、微かに意識のあった律が錬を抱きしめ、自らをクッション代わりにしたらしい。

 錬に連れられ、ひとまず律の元へ行くと、彼は驚くべきことに生きていた。

 ギリギリではあるが。

 意識はなく、全身傷だらけで酷い状態ではあるが、何とか呼吸はしている。

「頑丈な奴だ」

 死を覚悟していたので、息があることに安堵と呆れのため息が漏れる。しかし、呑気にはしていられない。危険な状態だ。

「手当をしたくても、荷物は崖の上なんです」

「うむ。では俺の刀を一緒に探してくれるか」

「はい?」

 こんな時に何を言い出すのか、といった表情に、天晴は説明する。

「前に軟膏の話をしてたろ? それが柄頭の中に針と糸と一緒に入ってる」

 そこまで言えば、錬も合点がいったと一緒に探してくれた。

 無明を探していると、錬が突然、一点を見つめて身を固める。顔は引きつり、手足が震える。

 無理もない。隣の天晴も内心では震えた。

 玉櫛である。

 血反吐を垂らし、全身の美しい白毛は血で汚れ、胸から大量の血が滝のように流れ落ちる。無明はその足元に転がっていた。

「んむぅ。やはり、生きてるよな」

 天晴は強がって見せながら鞘を構える。そして錬にはジェスチャーで下がるように指示すると、彼女は人形のようにコクコクと頭を振って、ぎこちない動きで大岩の裏へと隠れた。

 と言っても、すでに玉櫛の憤怒にギラツク目は天晴らを捉えており、今更隠れても意味はない。不気味で所々、異音の混ざる苦しそう唸り声を上げている。

 睨みあいの後、天晴は腹に力を込め、「参れ!」と声を張り上げた。

 覚悟をしたが、玉櫛が動くことはなかった。

 彼女もまた限界だったのだ。そのままゆっくりと崩れ落ち、倒れる。

 しばしの間、立ち尽くす天晴だが、緊張の糸が切れたように崩れ落ちると鞘に寄りかかり、肩で息をする。それだけ彼にとってギリギリの戦いであった。

「雪様!」

 様子を覗き見る錬が声を上げる。そこには、大狐から人の身に戻る玉櫛がいた。

 仰向けに寝そべる彼女もまた全身を血に汚し、時々溺れたような音を立てながら微かに呼吸をしていた。ゆっくりと開かれるその目には、理性が戻っている。

「あぁ」と掠れた声を彼女は漏らす。

「あのような場所から落ちたのですかぁ……よう生きておりましたなぁ」

 場違いなほど間延びしたしゃべり方である。しかもどこか他人事だ。

「正気に戻られたか?」

 近づく天晴に目だけ向けると、玉櫛はコクリと頷く。

「律は?」

「何とかまだ生きている」

 そう答えると、少し安堵したように目を閉じる。

「悔やみきれぬことをしましたぁ……悔やみきれぬぅ」

「操られてのことだ」

「それでも、何をしたかは、覚えておりまするぅ」

 そう言いながら、彼女の目から涙が流れる。

「正嗣様とわらわが守ろうとしたものが、壊れていく。それもわらわの手で壊していく。悔しいぃ……絶も。連れて行かれてしまった」

「絶は必ず連れ戻す」

 天晴の強い言葉に、玉櫛は目を丸くする。

「おサムライ殿」

「天晴だ」

「天晴殿ぉ。あなたは一体?」

「行きずりで絶の用心棒をしている」

「そう、ですかぁ」

「殺生石……絶だけで天狐(あまぎつね)は復活できるのか?」

 天晴の言葉に玉櫛は驚きつつも、諦めたように首を横に振る。

「それは、分かりませぬ。しかし、あの子の中の殺生石を活性化させる手立ては、あるのではないかとぉ。器は後で作ればよい」

「そんなことが……」

「そのような悪事に関わらぬよう、天狐族は古くから殺生石を隠し、守っておりましたが……。人間との交流が招いた罰なのでしょうかぁ」

 玉櫛は悲しげに目を伏せる。

「殺生石は妖狐の女に転生しますぅ。あの子がそうだと気付いた時から、危険は承知しておりました。だから、性別と力を隠すように育てました」

「だから、絶は男児であると言い張っていたのか」

「知っておったのですかぁ……」

「まぁ、ともに旅をしていればな。妙に言い張るので、無理に追及はしなかったが。なるほどね。男児であれば、殺生石の宿主にはならない、か」

「しかし、千冥には通用しなかったようですが……」

「力を隠した、とは?」

「わらわの妖力の結晶で作った品を持たせておりますぅ。祈りを込めた物で、あの子に蓄積する無尽蔵の妖気を放出させ、同時に他者からの術を弾く」

 玉櫛と戦った際に、圧縮された妖気が刀の障壁となったようなものだろう。

「あれを持っている限り、千冥は手を出せないはずだったのですがぁ……」

 そこまで聞いて、天晴は気付いた。

「ああー。すまん。これか」

 そう言って取り出したのは、漆黒の石が付いた指輪だった。

 それは、絶が天晴に護衛を依頼する際に報酬と言って渡した物だ。

 玉櫛もそれを見ると「ああー」とやはり緊張感に欠ける納得をする。

「それを渡したということは、あの子があなた様に心底、信頼していた証」

「そうか? 苦肉の策といった感じだったがな」

「例えどれだけ追い詰められようと、あの子はその指輪を手放したりはしません」

 確かに大事そうにはしていた。

「玉櫛殿。絶はどこへ連れて行かれた?」

 首を傾げる玉櫛に代わって錬が答える。

「お、恐らくは、卯ケ山城だと思います。山へ抜けて襲われた際に、千冥と藤原がそう言っていたので」

「助けに行くおつもりですかぁ? 親のわらわが言うのも何ですが、止めなされ。あそこは多くのサムライが控え、烏夜衆もおります。それに、もはや手遅れ」

「それは、行ってみなければ分からないことだ」

 ニヤリと笑って答える天晴に、玉櫛はキョトンと目を丸くし、そして笑った。苦しそうに、ぎこちなくではあるが乙女のように。

「あの子は、よい殿方に巡り合った。この状態では頭を下げられませぬが、ありがとう。感謝いたします」

 それは間違いなく母親の顔であった。

 そして、玉櫛は大きく息を吐く。彼女の中で何か吹っ切れたような、その表情は清々しい。

「最期にたくさん話せましたぁ。意外と死なぬものですね」

 どうにも反応に困るセリフに、天晴は曖昧に笑って誤魔化す。ただ彼女の顔は優しく微笑みながらも、涙を流している。

「永く生きましたが、やはり、死にとうないなぁ。わらわの可愛い絶をこの手で抱きしめたい。悔しい……」

 最後の言葉が本心だろう。重く感情が持っていたから。

「絶のことは、任されよ」

 言う必要はないし、そんな義理もないが、天晴は玉櫛の手を取り言う。彼女は掴み返すが、その手にはすでにほとんど力がなかった。

「よろしく、お願いいたしまするぅ。切に、切に」

「武士に二言はありません」

 優しく笑む天晴に何度も彼女は頷き、そのまま息を引き取った。

 安らかな顔で眠る玉櫛に、そばで黙って見ていた錬がすすり泣いている。

「錬よ。律の手当てをした後、山を下りる。お前は律の看病をしているか?」

「律様は、私にできうる限りのことはします。でも、絶様も助けに行きたいです!」

 やや迷いはあったが、後半にいくに従い覚悟が決まったような口ぶりだ。

「律様も意識があったら、そうするように言うはずですから」

 その意気は良し、と天晴はいつもの笑みを浮かべた。

「よし、そうと決まれば、さっさと絶を助けに、殴り込みだ!」

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