第五幕:圷砦と殺生石⑦
☆ ★ ☆
完全に日も落ちて闇夜が降りているが、圷砦を燃やす炎が煌々と辺りを照らすおかげで、薄暗くはあるが見えないことはない。
「大丈夫ですか? 律様。あまり無理をされない方が」
崖沿いの山道を駆けあがりながら、絶を抱える錬が訊ねる。大きく裂けた胴からは大量に血が流れており、彼の顔はすでに蒼白、目から光も失せつつある。
「俺のことより絶様は?」
「分かりません。こんな術は経験もないので……」
絶はぐったりとして動かない。
「どうしましょうか。追いつかれてしまったら」
おどおどと戸惑う錬だが、それに返せる余裕のある者はいなかった。
凹凸に足を引っかけ、律が転倒する。いつもならばあり得ないことだ。
呼吸も荒く、すぐに起き上がることができない。
「律様。やはり少し休まれた方が」
錬の応急措置が施されたとはいえ、血を完全に止めることも、ましてや治すことなどできない。律の限界は近い。
「不甲斐ない。あのような後れを取るとは……っ!」
森の暗闇からざわめきが聞こえる。気持ちの悪い気配も感じる。
近づいている。逃げきれない。守れない。
『もしもの時、絶を守ってくださいねぇ。あなたにしか、これはあなたにしか頼めぬこと』
意識の混濁する中、郷で玉櫛に言われた言葉を思い出す。その時、律は「ただ役目を果たす」と答えた。その堅苦しい返答に玉櫛はニコリと笑って『頼みましたよぉ。あの子はわらわの宝ゆえ。何を犠牲にしても、絶を任せます』と言った。律は顔を顰めるのみ。
それでも、その時の玉櫛からの頼みは、しっかりと律の中に残っていた。しかし、こうなってしまっては……。
もはや、ここまでか。
噛みしめた唇が裂けて血が流れる。
「錬。お前は無関係。絶様を置いて、逃げろ。お前だけなら、逃げ切れるだろう」
「え? でも、私だけですか?」
「絶様と俺は身を隠す。そっちの方がバレない確率は高い」
「しかし……」
「錬。正直に言う。一人で逃げてもらうのは、追手がお前に気を取られてくれるのも期待してのことだ。つまり囮になってもらいたい」
冷たい口調に錬は体をビクつかせるも、しばらく地面を眺めてから絶を降ろす。
「わ分かりました……」
「律、何を、言うておるの、だ! 錬を、囮に……」
微かに残る意識で、絶が掠れる声で非難する。しかし、錬は絶の手を取る。
「大丈夫です。絶様。こうする方が、両方とも助かるかもしれないのですから」
恐怖に引きつりながらもニッコリ笑って見せると、錬は律に一礼してから森の闇夜へと消えていく。しばらくすれば足音すら聞こえず、完全に闇に紛れ込んでしまった。
「律、おぬし、なにを考え……て?」
視線を向ける絶は、困惑した。
律がふらふらと起き上がり、絶へと歩み寄っている。その手はしっかりと鉄甲が握りしめられており、目は悲哀の色がある。
「なに、を?」
「お許しを絶様。お許しを雪様。この身では、もはやお守りすることはできません。この命が尽きる前に、護拳の役目を果たさなければ……」
「わ、わらわを、殺す気か?」
「雪様が敵の手に落ちた以上、殺生石まで奪われるわけにはいかないのです」
ジリジリとにじり寄る律を避けるように、絶は動かない体で這って逃げる。
どこにそんな力があるか分からないが、死に直面したことで力が湧いてくる。しかし、瀕死の律から逃げることも、攻撃を避けることもできない。
「いやじゃ」
「こうするしか。申し訳ございません」
「死にとうない!」
拳が振り上げられた時、一陣の風が二人の間に吹き込むと、律が弾き飛ばされる。
「どこもかしこも、少しおらぬ間に、どうなってやがる!」
「天晴」
大きく肩で息をし、顔にかいた大粒の汗を拭いながら、天晴はいつものように立っている。
「絶よ。何をされた? この紋は……呪式陰妖紋の類か?」
「去ったのでは、ないのか?」
「まぁ、お前と一緒でいろいろあったんだ」
苦しげながらも安堵の表情を浮かべる絶の髪を撫でると、律へと向き直る。
「見損なったぞ、律。絶を守るとほざきながら、この様は何たることか?」
怒気を含んだ一喝に、腰を付いた律は恨めしそうに見上げる。
「お前に何が分かる。殺生石が渡れば、天地が返るような災いが起こる」
「殺生石とは、得た者に力を与える代物ではないのか」
「そんなものはただの建前だ! あれは、大妖・天狐(あまぎつね)を生み出す力の核だ」
妖狐族の生みの親である金毛九尾を退治した際、九匹の大妖が産み落とされた。その一尾が天狐(あまぎつね)である。そして、その妖は器と力の源に分けることで封じられた。その力の源こそが殺生石だ。そして天狐族は、長らく復活を阻止する役目を果たしてきた。
「本来であれば、器と殺生石が揃っただけでは、天狐(あまぎつね)を復活させることはできない。だが、あの千冥とか言う怪僧は、復活の秘術を知っていた」
「その器と言うのは……」
律は苦々しく唸る。
「郷が襲われた後、俺は雪様を救い出すために卯ケ山城へ行った。だが、そこで見たのは……連中は、捕らえた者達を同族同士で食らい合わせていた。妖狐を食らうことで妖力を濃くし、眠る妖を目覚めさせる、と千冥は言っていた。器とは我ら天狐族そのもの。より妖力の高い者が選ばれる」
「胸糞が悪くなる話だ。だが、殺生石を守るために絶を殺す必要もないだろ」
「分からないか。殺生石など言葉の綾。要するに大妖の魂を指す。つまり、絶様こそが殺生石そのものなのだ」
「なんと……」
それ以上の言葉が浮かばない。話を聞いていた絶も、驚きすぎて困惑の顔をする。
「殺生石は宿主が死ねば、消失して他の者へと転生する。我ら護拳は、命に代えても殺生石を持つ玉霊をお守りする。しかし、万が一にも邪悪な者の手に落ちることがあれば」
「殺す、と?」
そうだ、と律は言い切る。
「白面の者を見て確信した、器がほとんど完成していると。後は玉霊と合わせるだけ。もう守り切れない。阻止するには、これしかない」
「腑抜けたことを言うなよ!」
天晴の大声が殷々と響き、森のザワメキを一瞬静かにする。
「連中の所業、腸が煮えくり返る思いだ。一矢報いなければ、腹の虫も治まらん」
「そんなことを言っても、もはや対抗する力もない」
「まだ力はある。俺が絶の用心棒だからな」
「たかが人間一人で何ができるか」
「それは、やってみなければ、分からんぞ。俺の本気を知らんだろう」
「……誓えるか? 犠牲になった郷の者達の無念に懸けて誓えるか?」
「武士に二言はない」
不敵に片笑む天晴だったが、眼光鋭く周囲を警戒して身構える。
何かが近づいている。
「来るか……」
気付いた律も、起き上がる。
木々の揺れる音すら鳴りを潜める緊張感。肌に当たる風は、怪物の吐息を浴びているようにやけに生暖かく、生臭い。
天晴は無明の鞘の一部をスライドさせ、輝光石を灯す。暗闇を照らすぼんやりとした明かりの中から、いくつもの姿が白く浮かび上がる。
白面を被り、白無垢姿の女達。
漂い立つ姿はまさに亡霊。
「これが……白面の亡霊か」
村々を襲い、人々を食らう化け物。そして。
「郷の女達だ」
苦虫を噛み潰したように律は唸る。妖狐は男よりも女の方が、妖力が高い。だから、器の候補は全て女なのだ。
遠巻きに眺める白面の女達は口々に「ニエ」「ニエ」と呟き、涎を垂らしている。
すると、その中の一人が前に進み出る。
天晴は全身から鳥肌が立った。
空間が歪むほどの力場を見たからだ。
その姿を目にした途端、全身が強張り呼吸も苦しくなる。それは律も同じこと。途轍もない圧力に、嫌な汗が止まらず、気が付けば手が小刻みに震えていた。
芯の底から湧き上がる恐怖。生命が持って生まれた自己防衛本能である。死を察知すると恐怖を持って警報を鳴らす。
この未知の存在は、これまでの相手と比べて別格である。
「なるほど、これは面白い」
敢えて片笑んで見せる。
女の細く長い指先がゆっくりと動くその所作は、思わず見惚れてしまう。
何かを仕掛けてくる。
合掌した手を高く掲げる。
(動け)
女に目を奪われ金縛りのようになっている天晴は、自身に喝を入れる。
何をするのかは知らないが、ヤバいことに変わりはない。
(ここで動かねば、漢に非ず)
女が掲げた手を軽く振り下ろした。
動作に相反し、巻き起こった旋風が刃となって飛んでくる。
天晴は渾身の力で身を捻り、見えぬ旋風刃目掛けて無明を力いっぱい振り上げた。
刃が鞘に当たる感触はなかったが、旋風刃ごと絡め取り上空へと軌道を逸らす。
背後の木々が切断されて地響きと共に倒れる。
凄まじい技だ。勝てるだろうか……。考えている余裕などない。倒せなければみんな死ぬ。なにより。
「あれだけ見栄を切って、死ぬわけにもいかんぞ」
緊張で乾いた唇を舐めて湿らせる。
すると、女の足元が光り、頑強な鎖が何本も現れ、絡みついて動きを封じる。
「これ以上の暴挙は止めよ。正気になられよ!」
律の必死の呼びかけも、無慈悲に闇夜に消えていく。
女が身を捩ると鎖は軋み、弾け飛んでいくが、矢継ぎ早に再度、封殺縛鎖。
身に絡まった鎖の上に、さらに現れる鎖が巻き付くが、動きを封じられるのは数瞬しかない。鎖は空しく弾き飛ぶ。
女は怯えた顔の絶を見て口を開くと、何かを呟いている。
「ゼ、ツ……カワイイ、ワガコ」
片言ながらか細い声が白面の奥から聞こえてくる。
「母上?」
聞き覚えのある声に、絶は愕然とした。
玉櫛の声だ。つまり、目の前の人物こそが絶の母だった。
妖力の強い玉櫛が器とされていることは分かっていたが、それでもショックは大きかった。
玉櫛は壊れた人形のようにクククと笑っている。
「ゼツ、ゼツ……ワラワの……ワラワのニエ」
やはり、すでに自我がないようだ。
絶へと一歩踏み出した瞬間、体に巻きつく鎖が全て弾き飛んだ。
「許せ」
覚悟を決める天晴は、玉櫛へ距離を詰めて一閃を繰り出す。
玉櫛は、絶以外は眼中にないようで、反応が僅かに遅れた。
絶の母親を斬る。
抵抗がないわけではない。しかし、こうするほかない。玉櫛を放置すれば、被害が広がる。天晴も含め、結局は絶や律の命も危ないのだ。
そうなる前に玉櫛は斬らねばならん。
完全に捉えた剣筋だったが、寸での所で玉櫛が宙へ飛びあがり避ける。
そして宙で両手をかざす。
『焔火・炎狐(えんこ)』
彼女がくるりと掌を返した時、目のくらみ光がチカチカと明滅。流星のように落ちてくる。
何とか身を翻すも、完全には防げない。
外套を纏い防御する。光が当たった瞬間、それは膨張し破裂。爆発。
叩きつけられるような爆風に立っていられずに吹き飛んだ。体中を打ち付け、肉体が悲鳴をあげる。しかし、痛がっている暇はない。
即座に起き上がる天晴は周囲を見渡すと、巻き上がる土煙の中で玉櫛が絶の前に立っていた。
強く踏み込んだ天晴は驀進する。
間に合うだろうか。否、間に合わせるのだ。
「ニエ……」
玉櫛の白面の奥から舌なめずりをする音が聞こえてくる。
背筋の凍るような声だ。
天晴は鞘に仕込んである薬式銃を向けると、隠し鈕を押し込む。勢いよく放たれた爆式弾は、一直線に玉櫛へ飛ぶが……。
彼女は視線をすら向けることなく手を翳すと、その手の僅か手前で弾が失速して停止。見えない壁に阻まれたように、宙に浮かぶ。
玉櫛から放出される膨大な妖力に阻まれた。
そのまま彼女は押し込むような仕草をすると、停止していたそれが先ほどにも増した速度で戻ってきた。それを躱すことができたのは、何か来ると身構えていたことに加え、天晴の持つ天賦の動体視力があってこそだ。爆式弾は遥か後方へ飛んでいく。
ヒヤリとしたが、それでも足を止めることはできない。
あとほんの少しでいい。彼女の気を引ければ、間に合う。
絶に手を伸ばしかける玉櫛の体が、後方へと引っ張られた。
巻き付いている鎖の一本が張っていた。
その先には錬がいた。
「あ、あの……へ、へへへ」
玉櫛に睨まれ、情けなく震え、顔を引きつらせて笑っている。
それは余りにも非力で僅かな抵抗である。しかし、玉櫛の注意を引くには十分だ。
何でもないかのように、引っ張られる鎖を引き返せば、錬はその力に抗えず宙を舞い、悲鳴を上げて地面に叩きつけられる。
それでもだ。
「でかした!」
天晴はその奇跡のような隙を見逃さない。
絶に視線を戻す玉櫛へ、鋭い一閃が。斬り上げられる切っ先は今度こそ、彼女の体を捉える。
(なんと重たい身体か)
まるで泥の中で刀を振っているように重たい。彼女の身に纏う妖力が邪魔をする。しかし、彼の無明はそれごと薙ぎ払った。
逆袈裟の形で煌めく一刃に、彼女は血を噴き出して身を逸らす。しかし、血の量が少ない。治癒能力が高く、斬ったすぐ後から塞がっている。
そう判断するやいなや、斬り上げた切っ先を返し、振り下ろした。
しかし、それは不発。
身を引いた玉櫛の白面のみを割る結果となる。
面の下から美しい顔が現れた。細く切れ長な目、鼻筋などはやはり、絶にそっくりだ。
それがキョトンと目を見開き、立ち尽くしている。
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