第二章
第9話 心優しくも強大な古代の神獣
大きな影が、クリーム色のドレスを着た少女を見下ろす。
それはクンクンと気を失っている彼女を調べるように嗅ぐと、ぐぐぐ、と少女と同じ人間のそれに姿を変えた。
衣装は、腰元のラインがはっきりと分かるようにドレスにも似ていたが古めかしく、腰より下はストンとしている。袖元などゆったりとした拵えは、神官のものにも似ていた。
浮世離れした空気を醸し出し、それは少女をじっと見つめた後、彼女を浮き上がらせた。
うつらうつら、舟をこぐ。
メイベルは眠気に揺られながら、風がそよぐ心地良さに身を委ねていた。
それは、ダンジョンに捨て置かれ実家からも勘当されてからの、初めての安らぎである。
「んんん……」
もぞもぞと身じろぎをして、うすらぼんやり目を開ける。
それから、窓の端に大きな影を認めると、メイベルはぐぐーっと伸びをして椅子から立ち上がった。
「おはようございます、魔王陛下」
質素な木の家から出て、目の前に降り立った大きな影に挨拶をする。
「おはよう。言われた種を取ってきた。住まいに不都合はないか」
男は無表情に近い表情でメイベルを見下ろした。
メイベルは首を振る。
「とんでもございません。ありがたく頂戴いたします」
メイベルが魔王と呼んだ男は、正体を燃え上がる赤をまとう黒竜で、人の姿になると黒髪赤目の見目麗しい青年になった。
その美貌ときたら、元婚約者をふくめ見飽きるほどの美男美女と会ってきたメイベルだが、国中を探してもほかに居ないと思うほどである。しかし少しばかり、どこかで見たことがあるような気もしている。
「命をお救いくださるだけでなく、こうして衣食住を提供していただき誠に感謝しております」
初めて会ったとき、メイベルは魔力切れで倒れたあと、この竜に拾われていた。
青年の姿となった竜の髪は短く切り揃えられ、その表情はよく見えたが、表情自体はあまり動く
険しいわけでもなかったが憂いを帯びた眼差しだった。とくにメイベルを見るときは、それがはっきりしている。
目を覚ましたメイベルは、状況を飲み込むと、とうぜん、その黒竜に神君竜王であるかと、瞳を輝かせて訊ねた。
すると、彼は少なからず良い感情とは逆の様子で目を細めて、「ああ、そう呼ばれていたな……」と答えた。そして。
「僕のことは魔王とでも呼べ」
と言うので以後、魔王陛下と呼んでいる次第である。
「陛下、魔王陛下ね……」
竜がつぶやく。
「我が故国に残る、いにしえの呼び名にございます。わたくしは故郷を追われた身にありますが、その理由の一つに、わたくしに魔王の疑いがかかっていたようで、この状況で本物にお会いし、しかも助けていただいたとあれば。わたくしは不遜ながら親しみと、最大限の敬意を以って、そうお呼びしたいのです」
滔々と語られたかったわけではない魔王は、面倒臭さが勝ってか即答した。
「好きにしろ」
勝利。と言わんばかりに、メイベルはにっこり笑う。
「はい」
魔王は呼ばれ方こそ放り投げたが、メイベルの世話は細やかなものだった。
メイベルに帰る場所がないと知れば住処を与え、着る服も食事も用意する。森の中に、その日のうちに立派な家が建った時など、けた違いの魔法にメイベルは心底おどろいた。
毎日の服も肌触りがよく、意匠もメイベルの好きに合わせてくれるという手厚さ。当然ながら、生活に不自由はなかった。
このように人の生活に慣れているようで、人の姿になれるのもそのためか、とメイベルが尋ねると、魔王は昔を思い出すような目をしながら頷いた。
そんなことを思い出しながら、魔王から種を受け取って、メイベルは改めて彼を見る。
「出発の予定は明後日にしました。しかし、本当に遺跡に入ってもよろしいのですか?」
「ここを管理している覚えはない」
「では改めて。勝手にお邪魔しますね。……ああ。ヨルノスの遺跡に入れるなんて、なんて幸運なんでしょう!」
緊急使用だったが、転移石はメイベルの望み通りの場所へ運んでいた。メイベルの目的は、当初の通り遺跡である。神君竜王と出会うのにもっとも可能性がある場所。
そこはアヴァルランド王国の国境を越えた北にあり、ヨルノス遺跡という名で知られている。
近くにコルート家が治める領地があり、メイベルにとって最も親しみのある国外だった。元々このヨルノス遺跡のために、メイベルは遺跡探検が趣味になったのだ。
そんなメイベルを、魔王は静かに見つめる。
「……以前に神君竜王の壁画を見たんだってな。だったら、呼ばれているのかもしれないな」
それを聞いて、メイベルは勢いよく振りむく。
「そのお話が本当であるならば、とても光栄なことです」
それでいて別人のように、貴族然とした姿で答える。
魔王は軽くうなずいた。
「お前が先祖返りだとしても、本来ならここまで来れるものではない。本当の故国を目にすることになるだろう」
「今から楽しみにします」
メイベルは目を細めた。
先祖返りの外見のせいで心ない言葉を浴びせられ、軽んじられてきたのだ。魔王の言葉には、胸がいっぱいにならないわけがなかった。
しかし、メイベルはふいに畏まり、真剣な眼差しで竜を見た。
「魔王陛下」
魔王が見下ろす。少女の手は微かに震えていていた。
メイベルは深く息を吸って口を開いた。
「御無礼を承知でお伺いします。――魔王陛下は、本当に魔王であらせられますか? 私は、本当は魔王で、だから遺跡に来れたのでしょうか? ――陛下はなぜ、私に良くしてくださるのですか?」
ずっと訪ねる機会を窺っていたのだろう。
メイベルの言う通りその疑問は無礼でもあり、そして当然の疑問とも言えた。特にこれだけの世話をしてもらう理由が、メイベルの中にはない。
「お前の正体が本当のところ、何者であるかは僕も知らん。少なくとも、僕の知っている魔王ではない」
尋ねられた黒竜は、どこか遠い場所を思い出すように視線をやった。
「かつて魔王は二柱いた。お互いの民が、相手の神をそう罵り合った」
メイベルは軽く目を瞠る。
「そんな歴史が……。初耳です」
「争い自体は知っているだろう。どこまで語られているのかは知らんが、お前も言っていただろう、お前がアヴァルの民が来るより前から居た民の末裔なのは、火を見るより明らかだ」
「ええ……。しかし外見の血は薄れ、いまは魔女の証です」
それがこの地の先住民の末路だった。
魔王は彼らのことを昨日のことのように思い出せるが、人間の時間では遥かに遠い、遠すぎる昔の出来事である。
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