第三十五話 名・前
僕らはまた静寂な空気に包まれる。次にそれを破ったのは、彼女の方だった。
「先輩」
「なんだよ」
「私って本当に生きていていいんですかね」
呟くようなその一言に、僕は叫びそうになる。だけどその衝動を抑えて、敢えてその続きを無言で促してみる。彼女は空を見ていた。たぶん大きく美しい夜空を見ながら、おそらく何度も頭で考えていたであろう言葉を、噛むことなく並べた。
「こんな私が生きてるだけで何万人もの人が悲しみます。こんな私が消えちゃうだけで何億人もの人が喜ぶんです。魔女が望まれてない世界だったら良かったのに」
「……そうなのかもな」
「こんな私が生きた所でたくさんの人たちは知らないです。こんな私が消えた所でその人たちは変わりません。誰も魔女を憎まない世界だったら良かったのに」
「……」
「それなのに。こんな私が生きてるだけで、どうして先輩は笑えるんですか?」
指摘されてようやく気付く。僕は笑っていた。
心の底から吐露された彼女の言葉に、僕はどうしようもなく喜びを隠せずにいた。言葉の裏に秘められた彼女の本心。それが握った手のぬくもりから伝わってくる。人肌と同じ温度の彼女の手を離したくないと思ってしまった。
「先輩がそんな笑顔じゃ、さよなら出来ないじゃないですか……」
横から鼻をすする音が聞こえる。
「さよならする理由なんて無ければいいのに」
たとえ彼女に人から離れる理由があったとしても。僕がその手を掴んでおきたい。
実直な想いを込めて息を吐いた。
「この世界の誰かのために死ぬのなんてやめてくれ。僕がいるじゃないか。僕一人のために生きてくれないか」
「……先輩のため、ですか」
「不満か?」
「大不満です」
「はは、厳しいな」
さっきよりも大きくぐすん、と鼻をすする音が聞こえた後で、
「でも、すごく嬉しいです」
「そっか」
感じの良い笑い声が僕らの間を満たしてくれる。前に見た彼女の悲しそうな笑顔ではなかった。もう誰かのためじゃなくて、自分のために笑えるのだ。
「もう縛られることがないって思うと、急に何をしたらいいのかわからなくなりますね」
自由だと呟くその言葉はすっと僕の胸の内に沁み込んできた。解放というだけでは言い切れない重さがある。魔女狩りに襲われる危険が消えた今、それは庇護も保護も無くなったということだからだ。
不意に彼女がくしゃみをした。可愛らしい小さなくしゃみだった。
夜も更けて来た。だんだん寒くなってきた。僕の都合で長引かせてしまって申し訳ない。だけど、エンドロールに何を話すかはもう決めている。そろそろ僕の物語に決着を付けようか。芝居がかった口調で、僕は指を一本立てた。
「そうだ。だいぶ遅くなったんだけど、最後にもう一つだけ聞いていいかな」
彼女の能力のせいもあって、とっくに思い出せなくなっている。もはや『彼女』という代名詞でしか語れなくなっている。彼女の反応を待たずに、僕がずっと聞きたかったことを言葉にする。ためらう必要もなく、こう言うには時間はかからなかった。
「君の本当の名前を教えてほしい」
僕の質問に彼女の目が数ミリ開かれたのがわかった。
出会った時にも同じ質問をしたんだっけ。だけどその時ははぐらかされた。だからこそ、僕はもう一度聞きたい。関係を築いた後だからこそ、僕は『彼女』なんて曖昧な表現じゃなく、名前を呼びたいのだ。
数秒だけ待ったあとで、向こうから口を開いてくれる。
「私の名前は……」
すっと息を吸う。
「愛を信じると書いて、信愛です。シアと呼んでください」
可愛らしい声で呟いたシアは笑って見せる。閉じた目からは大粒の涙が零れ出す。
およそ三回死んで生き返ってたどり着いた答えがこれか。得られた答えはあの時とかわらないはずなのに、どうしてこんなに満足しているんだろう。僕の頭の後ろの方で、誰かの声が聞こえた気がした。
『僕の中で君が死ぬ前に助けたかった』。
ああ、それだけだ。単純で明快。無駄な考え事をしなくていいから、僕は動けた。複雑に考えていれば、きっと手も足も動かなかったはずだから。閉じこもらずに心を開いたシアだからこそ、助けを求めて伸ばした手を掴むことが出来たのだ。
「いい名前だな。もっと早く知りたかったよ」
嬉しそうにはにかむシアを横目で見ながら、僕はようやく首を天に向ける。
澄み切った夜空には、一等星を囲むように点々と星が浮かんでいた。
黒と青の入り混じった世界でも、赤い月だけがはっきりと輝いている。
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