第三十四話 母・親
二人が結界を出たことで、辺りは暗闇から少しだけ明るさを取り戻す。断絶されていた空間から、周囲の音が徐々に戻ってくる。虫の音や鳥の鳴き声、遠くの方では車やバイクが走っているのがわかる。
僕と彼女だけ取り残される。いや、ようやく二人きりに戻れたという方が正しいのか。
とてつもなく長い映画を生身で体感した感覚に近い。最低な気分ではないにしろ、あの終わった時に襲ってくる疲労感。それによく似ていた。
だけど上映終了といっても、エンドロールは流れないのだ。観客でもある僕らはキャストでもある。こんな夜中の道路上に立ち続けるのも華がない。二人して道路脇まで移動して、近くにあったベンチへ腰を下ろした。どっと疲れが体に伸し掛かる。
このまま思いっきり「つかれたー」とでも叫び出したい気分だ。幼い子供のように振舞いたいレベル。今ならお菓子をねだる駄々っ子にも負けないかもしれない。多少格好悪くともご愛嬌願いたい。
だけど、それをするにはもう少しやるべきことがある。彼女には悪いけど、最後まで話に付き合ってもらおう。
わざとらしく咳ばらいをする。
「さて。まず一つ言いたいことがある」
僕の唐突な切り出しに、彼女はきょとんした表情を作った。何のことかわかっていないらしい。説教するつもりはなかったけど、ちょっとだけ意地悪してやろう。
「僕が例の魔女狩りの能力で眠らされていた時にさ、店長や倉橋は君の事を忘れていたんだ。最初は単にからかっているだけかとも思った。でも君との記憶がすっぽ抜けただけで、あとは普通に会話していた」
「そ、そんなことがあったんですねー」
わざとらしい声でとぼけてくる。視線は明後日の方向に投げられていた。そんな様子も構わず、僕は話を続けた。
「魔女狩りに撃たれたこともあったから、もしかしたら奴らが僕から君の記憶を奪おうとしているのかとも考えた。でも違った。アイツの能力は二つの弾丸だけだったからな」
「記憶を消す代わりに、見逃してもらう約束をしましたので……その」
「つまりは、別の誰かが意図的に、僕の記憶を消そうとしていたことになる」
「だ、誰の仕業だったんですかね……」
「まあ僕が言いたいことはさ」
分かりやすく挙動不審になる彼女に苦笑しながら、満を持して、僕は結論を口にする。
「君が! 僕の記憶を! 消そうとしてたんだろ!」
「ああ、先輩! ごめんなさいごめんなさい!」
頬に人差し指を突き付けてぐいぐい押す真似をしたら、彼女は軽く悲鳴をあげて謝った。困り眉で泣きそうな表情。ちょっと可愛い。
やり過ぎても仕方ない。適度に距離感を取って、僕はぼやくように文句を乗っけた。
「なんでだよ。なんで消そうとしたんだよ」
「せ、先輩」
はっきりとした声に僕の視線は彼女の目に向かった。透き通るかのような黒い瞳。じっと見つめた状態になる。一瞬だけ時間が止まったのか思った。やがて彼女は口を開いた。
「本当に傷つけたくない人ほど、遠くに置きたくなるんですよ」
とても静かな物言いだった。
僕の中に用意していた言葉はあっという間に消し飛んでしまった。違う意味で開いた口が塞がらない。それがなんだか負けたみたいで悔しくて、彼女に聞こえない程度にそっと文句を言った。
「前みたいに、タイムリープで戻せばよかったじゃん」
「タイムリープ? 何のことですか?」
「……いや、いいんだ。忘れてくれ」
彼女の血壊は記憶を操る能力だった。それを聞いた時点でなんとなく察してはいたが、やはりタイムリープ自体は彼女の力ではなかったのだろう。
タイムリープ、いや時間逆行はいずれも僕が望んだ結果だ。「彼女を救いたい」という願いが繰り返された分だけ、その世界が分岐していった。過去を繰り返しているようで、もしかしたら違う世界線を行ったり来たりしていたのかもしれない。
まあいいや、と呟く。頭を軽く搔きながら、僕はもう一つ彼女に話したかったことを頭に浮かべる。あの時は腑に落ちなかった謎を、その答えを確かめるために。
「君が欲しかったものってアレ、だよな」
僕はポケットに突っ込んでいた例の御守りを二つ取り出した。
青色の刺繍で彩られた厄除けの御守り。それともう一つ。僕が差し出した御守りを見て、ほんの少し驚きと期待のこもった顔つきになる。
「よくわかりましたね。先輩にバレないよう、ささっと買ったつもりだったんですが」
先に買っていたのは、欲しくてたまらなかったからじゃないのかよ。そうツッコミそうになったが、僕の口から出たのは単純な笑い声だった。
苦笑する彼女が僕の手の内から、赤い御守りを摘まんだ。紐の部分を人差し指に通して目の前にかざす。ゆらゆらと揺れるその赤色は蝋燭に灯る炎のようにも思えた。
中心に平仮名で文字があることで、激しく燃える炎というよりは柔らかい印象を与える。装飾はピンク色の花弁と緑の葉が綺麗に咲いている。僕の持っている青色とは相対する綺麗な色だ。彼女の瞳の色とそっくりに思えた。じっくり見終わった後で、彼女は当然の疑問を口にした。
「どうしてこれを?」
「君を探していた時に、もう一度あの神社へ行った。その時に」
不思議そうに首をかしげていた巫女のお姉さんには、コイツはどうしてまた来たんだと、勘違いさせてしまったかもしれない。僕が買ったのは直感的だったが、あの時に感じたのはなんだったのか。
彼女はどうだったのか。どうしてこの縁結びの御守りが欲しかったのか。
「理由、聞いてもいいかな」
「先輩の事ですから、だいたいの見当はついているんじゃないですか?」
僕は黙ってこくりと頷く。正直者ですね、と華奢な肩が揺れた。
「この縁結びの御守りは、亡くなった母が最期まで持っていたものなんです」
真一文字に結ばれていた唇がそっと開く。
「お母さんは珍しい先天性の魔女の子でした。後天性の私たちと違って、幼い時から色々と苦労したと聞きました。厳しい家庭で育ち、イジメや虐待の末に祖父母の家に逃げ込んだそうです。田舎ではお金欲しさに魔女狩りに通報する人も多くて、どこへ行っても厄介者扱いされる。そんな人生、私だったら耐えられないですよ。
それでも助けてくれたのが私の父だったそうです。魔女の血の遺伝を恐れて、父は私の出産を反対したそうですが、お母さんが意地でも産むことを決めたそうです。隠して静かに生きるつもりだったとよく話していました。
だから私はお母さんが魔女の子だと最初は知らなかったし、どうして魔女狩りに襲われるかわかりませんでした。それでも母は、ただ泣くしか出来ない私を必死に守ってくれました。でも限界がきて、何度か魔女狩りに殺されました。泣きながら母の手を握ったんです。いつもは冷たいはずの手が、その時だけはとても温かく感じました」
「お母さんが死ぬのを見るのは怖くなかったのか?」
「最初は……。でも二回三回と続けば慣れてしまうものです。心が傷つかないように、だんだん人の死への耐性がついてしまう。とても嫌なことです」
「何回も殺されたというのは?」
「母も血壊が使えたんです。治癒の能力で、心臓が止まっても手足が欠損しても再生できるのはびっくりしましたよ。弱点以外はほぼ無敵という強い人です」
そう言う彼女は笑っていた。確かに一度死んだ人間が生き返るのを見れば、感動どころか冗談かと思って、笑ってしまうのも無理はないのかもしれない。
「そうして何度か魔女や魔女狩りのお話を聞きました。やがて私の体に刻まれた紋章の事も聞きました。単にストレスの現れなのか、私が無意識に抱いた想いの現れなのか。そんなことを言いました」
なぜ彼女が血壊のことを知っていたのか。前に聞いた時に母の話題が出た気はするが、僕のあえて聞かなかった話のはずだ。ゆっくりと辿るように、あるいは思い出すように過去を紡ぎ出す。
「ご存じの通り、魔女の子たちは火に弱いです。母も最期は焼かれて死にました。その時に、初めて魔女狩りの血壊を見たんです」
魔女の子に備わった力は、外敵から身を守るためにある。でも方向性を間違えば、その剣は相手を傷つける武器にもなってしまう。それが魔女狩りなんだと、教えてくれた。
「だから誰も傷つかないように、距離を取ることが正解だと思いました。誰とも関係を築かなければ、大切な人が居なくなることもありませんから」
「でも、君は望んだ」
ええ、と零れた涙をぬぐいながら、彼女は応えた。
「母が教えてくれたんです。『みんな、一人じゃ生きていけないの。誰か一人でもいい。何があっても離れない人と結ばれなさい』って。魔女の血は異性をより強く求めてしまうそうです。『私は失敗したから、あなただけはうまくいってね』と泣きながら手を握られたんです。その時の母は、父の遺影を見ていた気がしました」
ぎゅっと手元の赤い御守りを握りしめていた。
「みんな魔女の事を忘れてくれれば誰も傷つきません。でも、忘れられるのがこんなに怖いとは思いませんでした」
あの時、店長や倉橋、巫女さんや高校の子たちの記憶が消えていっても、最後まで僕の記憶は残ったままだった。いや、残ろうとしていた。それは彼女の躊躇いだったのかもしれない。
そうして長いお話しが終わった後で、彼女はほっと一つ息を吐いた。こんなに長くしゃべったのはいつぶりか。そんなことを言う彼女に、僕は明るい調子で感想を呟いた。
「素敵なエピソードだな。小説の一つでも書けそうだ」
「使ってくれてもいいですよ」
彼女の声は笑っていた。揺れる体から、一つ手が伸びてくる。かつて冷たいはずの手だった。その温かさと同じ体温で僕はその細い指を握った。
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