第三十一話 血・壊

「何が起きた……っ‼」


 反射で飛び起きると、そこは僕が死ぬ直前までいた世界だった。腹部から流れ出た血で汚れた服も本物だ。傷口は収まっているのか痛みはなかった。その代わり自分の身体は大きな疲労感を溜め込んでいるのか、誰かに支えられていなければ上体を起こせなかった。

 その誰かの優しい手つきが僕の頭を撫でている。……ああ、そうだ。この子のために僕はここに戻って来たんだ。


「おかえり、なさい……!」


 擦れた声と鼻声の混じった声は震えを隠しきれていなかった。赤い目には涙をいっぱいに溜めている。だがそれも許容量を超えてしまっていて、ボロボロと粒が零れ始めた。濡れた頬を撫でるようにして僕はそっと手を伸ばした。人差し指がしっとり濡れる。


「ごめん。遅くなった」

「ちょっとだけ待ちましたよ。でも、嬉しいです」


 いつか聞いたセリフと同じ。僕の脳裏に二人で出かけた時の光景が浮かぶ。あの時も確か僕が寝坊したんだっけ。今回はそれと比にならないくらいの大遅刻になってしまった。彼女は確かに消えた。だけど、ずっとここで、僕を待ってくれていたんだ。

 目尻に涙を溜めた状態のまま、彼女は僕の言い訳に対して首を横に振ってくれる。暴走した魔女化は解けているらしく、見た目は前に見たものと変わらない状態だった。

 普通に会話が出来ているし、今なら聞きたいことも聞けるだろう。


「一応聞くけど、これって四度目の世界とかじゃないんだよな」

「なんの話ですか?」

「いや、ただの独り言。どうやらその反応からすると、僕の予想で正しかったみたいだ」


 あの世界では、タイムリープとはまた別の論理が働いていたらしい。彼女が消えた世界で、僕と彼女を唯一繋いでいたのは青色の御守りだった。僕が購入した厄除けの御守りは、僕の命を危機に晒すものを除けてくれていたのだ。その不思議な力がいつ込められたのかはわからないけれど、僕の命を救ってくれたのは間違いなく彼女の力の一端のはずだ。

 そして彼女が望んだものは――。


「まさか本当に戻ってくるとは。少し貴様を見くびっていたかもしれんな」


 重圧を帯びた低い声に僕の思考は中断された。僕たちの後方に銃の魔女狩りが得物を構えていた。狩人のようにじっと、いつでも撃てると言わんばかりの警告を込めて、引き金に指掛けている。

 だというのに、どうして彼女はこんなに笑っているんだよ。

 この世界に戻って来たということは、魔女狩りの二人と戦っていたあの瞬間の続きになるということじゃないか。反射的に彼女の前に立とうとしたが、さっきまで感じなかった鈍い痛みで動けなかった。血は止まっているが、傷が完治したわけではない。くそ、こんな状態じゃまともに戦うことなんて……。睨みを利かせることしか出来ずにいると、銃の魔女狩りは眼鏡のフレームをくいと押し上げて、ほんの少し感嘆を孕んだ声音で続けた。


「貴様に問おう。そこの魔女を助けようという意志、まだあるか?」

「当たり前だろ」

「そうか」


 とても残念だ、とでも言いたげに肩をすくめて嘆息する。それから僕から彼女の方へ視線を回すと、


「おい、魔女よ。どうやら賭けに勝ったのはそちららしい」


 銃の魔女狩りはゆっくりと銃口を下げた。背中に回して軍服の肩の部分に引っ掛ける。どういうことだ? 僕が疑問を呈すると、銃の魔女狩りは素直に答えてくれた。


「賭けっていったい何の話だよ」

「んん? ああそうか。向こうの世界ではこちらの声は断絶されるのだったか。我とそこの魔女で、『貴様の意識が戻った時、まだ魔女を救う覚悟があるか否か』の賭けをした」

「なっ……」

「縁を結んだ人間から仲の良い魔女の記憶を消せば、その人間には一般の魔女への恨みだけが残ると我は考えていた。だからこれは実験でもあった」

「僕を使って実験……?」

「救う意志がないのなら貴様の解放を条件に魔女は殺していたのだがな」


 そんな独り言を呟いた後で、銃の魔女狩りは胸ポケット閉まっていたらしい煙草を取り出す。火をつけると紫煙が立ち上り、苦さと煙たさが鼻孔をくすぐった。

 薄々感づいていたが、あれだけ攻撃的だった銃の魔女狩りが道理で大人しいわけだ。僕が何かを言おうもんなら問答無用で撃っていた奴だぞ。ここまで会話が成立したことにびっくりだ。……って、そうじゃなくて。


「どうして、そんな賭けをしたんだよ」

「魔女曰く、我が身を犠牲にしてでも貴様を助けると言うのでな。他の魔女の子であればとうに射殺している。それに面白いと考えた」

「……面白い?」

「繰り返すが、貴様から親密な魔女の記憶や存在を消した場合、それでも魔女を救おうとする意志は残っているのか。夢の世界でそれを体験したはずだ。まずは周囲の人間の記憶、記録、そして貴様自身へと作用させた。その魔女自身の固有血壊を使ってな。

 記憶の消去、追加、書き換えに至るまで、相手の記憶を操ることが出来る。ただ同時に複数人に発動することは不可能なため、常に対象を選ばなければならない」

「ただ使用条件に、相手の目を直接見る必要があるんですけどね」


 魔女狩りの言葉不足を補う形で、彼女が説明を加えてくれる。


「君が、僕の記憶を消していった……? 魔女狩りじゃなくて?」

「いや、えっと、その……ですね」


 僕を支えたままの彼女に視線を向けると、すっと視線を逸らされる。どこか気まずそうな表情。もしや独断で僕に能力を使ったことを咎められるとでも思っているのか。


「ああ、疑問に思っていたようだが教えておこう。貴様を生き返らせるまで手出しはしない契約を交わしている。それと」


 どうやら顔に出ていたらしい。手出しをしてこないと断言する以上は大丈夫なのだろう。無意識のうちに張っていた肩の力がようやく抜けた。


「その様子だと完全に記憶が消される前に戻って来たみたいだがな」


 無表情だった銃の魔女狩りが、どこか不遜な笑みを浮かべている。杞憂していた僕をどことなく馬鹿にしている。些細な表情からそんな感情が伝わってくる。なぜかわからないけれど、他人の表情から気持ちが読める気がした。不思議な感覚だ。


「戻って来たって、待ってくれ。僕はあの時、撃たれて殺されたんじゃないのか?」


 タイムリープのことはあえて伏せた言い方にした。


「我の血壊は二種類ある。炎の断罪と氷の凍結だ。前者は魔女を燃やすためにあり、後者は人間の時間を止まらせるためにある。貴様に撃ったのは後者の能力だ。そして眠っている間に魔女の治癒と内部精神への干渉を起こさせた。だが、貴様自身の無意識までは消去に至らぬ。ふん、運がいいな」


 銃の魔女狩りは何か続きを言っていたが、僕の耳には入らなかった。僕の意識は複雑な説明よりもさっきの契約とやらに囚われていた。

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