第二十九話 邂・逅

「――見つけた」


 本棚の影に倉橋は悠々と立っていた。あの日と違ったポニーテールの髪型で、黙々と仕事をしている。傍にやって来た僕に気がついたのか、少し驚いた後に怪訝な表情を浮かべた。倉橋なら覚えているはずだ。シアと話していた記憶を忘れてないはずだ。


「またサボっているのかしら。いいかげんに」

「なあ、シアはどこにいるか知らないか⁉︎」

「ちょ、ちょっと神無月くん。いきなり何?」

「なあ、シアのこと覚えているだろ。アイツが今どこにいるか知らないか?」


 咄嗟に倉橋の肩を掴んでいた。強く揺することはしなかったはずなのに、返って来た視線はどこか不審者を見るかのようなものだった。


「え、なに……誰よその女」

「おいおい、こんな時にふざけるのはやめてくれ。シアだよシア。お前なら、覚えているはずだろ?」

「ちょっと落ち着きなさい神無月くん。私はそのシアって子が誰なのかまったくわからないし、神無月くんが何をそんなに焦っているのか理解出来ないわ」


 そこまで言い切ると、倉橋は胡乱な目つきのまま、掴んでいた僕の手を乱暴に振り払った。いつか僕の手を振り払った時のように、どうしようもなく僕に現実を突きつけてくる。


「なんで。なんで、倉橋も忘れてるんだよ……」


 零れた隻語は頼りなく口の中で溶けていった。


「ねえ、大丈夫なの?」

「どうしてだよ。あんなに仲良さそうに話してたじゃないか。同じ魔女の子だって、共通点があって、それで……それで」


 どうしようもないほどの圧迫感に飲み込まれそうになる。吐露した言葉に反応してか、今度は倉橋が僕の手首をぎゅっと掴んできた。痛いくらいに強く、確かな意志を伝えるように、握りしめてくる。


「ちょっと待ちなさい。今あなた、魔女の子って言ったかしら?」 

「え、いや。倉橋のことじゃなくて、その子のことで……」

「神無月くん。昔あたしが言ったことを覚えていないと言うのなら、もう一度言うわよ。よく聞きなさい」


 息を吸って一拍置く。僕と倉橋の間に数秒ほどの沈黙が流れた。それでも催促はせずに、僕は黙ったまま倉橋の続きを待つ。そうして重低音でかつての約束が告げられた。


「魔女と関わるのだけはやめなさい。ろくなことにならないから」

「違う! 魔女じゃない!」


 反射的に飛び出たのは否定の声だった。その声が耳に戻ってきて、自分が大きな声を出したことに驚く。認めた途端に、それをフォローするだけの言葉が見つからなくなって、段々と自信も失せて視線が下がっていく。俯いてしまった僕には、繰り返すことが精一杯だった。


「あいつは、魔女じゃないんだよ……」

「仮に魔女ではないとしても。それでも魔女の子と関わるとどういうことになるか。あなたはそれを痛いほど理解しているんじゃないの?」


 倉橋の手の震えが僕を通して伝わってくる。俯く顔に影がさす。分かってる、そう言おうとしたが、なぜかすんなりと声は出てくれなかった。


「魔女の子がこの社会でどういう立場にあるのか、どういう認識をされているのか、神無月くんはずっと見てきたはずでしょ。だから戦って、傷ついて、逃げた」

「逃げてしまったでしょ、神無月くんは」


 連続した倉橋の声が心に深く突き刺さる。僕の心に突き刺さって抜けないままだった棘。そいつを無意識の外に引っ張り出される。


「お願いだから、これ以上あたし以外の魔女の子と関わるのはやめて。そんな心がボロボロになるまで、どうして戦おうとするの」


 手の震えと同調するように、涙と鼻声が微かに混じったような声に聞こえた。たぶん以前の僕なら、そのお願いに応えてしまっていた。戦うことすらやめて、偏見から、差別から、誰かの視線から逃げてしまっていただろう。でも違うんだ。そこで終われば、一生負けたままになってしまう。

 あの時――シアが傷ついた魔女の子を助けたように、自分よりも誰かを助けようとして生きた人間に、僕の心は動かされた。たとえ武力で戦って勝てなくたっていい。弱者には弱者なりの戦い方があるんだってことを。逃げずに向き合う強さを、僕はあの背中から知ったのだから。


「ごめん」


 だから、倉橋の願いだけは聞くことは出来なかった。僕が僕ではなくなってしまうから。倉橋と一緒にいたいけど、永遠にちっぽけでダサい僕のままでいたくはなかった。


「違うんだよ。そうじゃないんだ」

「どういうこと?」

「確かに昔の僕は君と恋人になってから、周りからそういう目で見られて、想像以上に大変な経験をした。だけど、そこで終わったら永遠にそのままなんだよ」


 さっきより鼻を啜る音は大きくなっていた。


「逃げた奴はさ、いつかちゃんとその現実と向き合わなくちゃいけないんだ。逃げたままは嫌だ。格好悪い奴にはなりたくない。そう思うようになってしまったからさ」

「ダサくてもいいじゃない。私にだけ見せてくれば」

「僕はさ。たぶん、他人に誇れる自分になりたいんだ」


 ようやく顔を上げた倉橋は、両目から涙を流していた。真っ赤に充血した目に倣って、頬もやや色づいているのが分かった。酷い鼻水だ。もう笑っちゃうくらいに。


「ごめん。行かなくちゃ」

「……行くってどこに?」

「わかんないけど、シアの所に」

「泣いているあたしを放置して、他の女の所に行くのね」

「それは本当にごめん。でも、やらなくちゃいけないことがあるから。僕は自分のできることを、やれることをしなきゃいけないんだ」


 そこまで言い切ると、倉橋は一つ鼻を鳴らした後で掴んでいた手を離した。僕の体をグルリと回して反対方向へ向ける。ポンと小さな拳が背を叩く。


「ちゃんと帰ってこないと殺すわよ」

「おいおい物騒だなぁ、相変わらず」

「じゃあ、死んでも許さない」

「死んでもかよ。……分かった」

「店長にはあたしからなんとか言ってあげるわ」

「本当に助かる」


 押された背中の温かみを感じながら、僕は店の出口まで駆け出す。


「もう馬鹿ね。逃げたんじゃないことくらいわかるんだから。なんで否定しないのかしら。あの馬鹿は」


 小さな声が聞こえた気がしたけど、僕はその言葉に振り返ることはしなかった。

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