第二十五話 魔・女

 シアがどこに住んでいるのか正確に聞いてはいないが、指さした方向へと歩き出していく。夕暮れからすっかり夜の街へと姿を変えた歩道を進んでいると、耳には虫の音と二つの足音しか聞こえなかった。使い古された表現だが、「世界に僕たちだけが取り残された」という言葉がしっくりくるほどだった。


「今日はやけに月がはっきりと見えるな」

「『血の満月』だったりして」


 まさかと思って空を見上げる。頭の上で華やぐ白い月。空気が透き通っているせいか、妙に赤みがかって見えた。彼女の瞳の世界にはどう映っているのか。


「まさかね」冗談めかして呟いてみたが、反応はなかった。

 肌に冷や風が吹きつけてくる。だがシアの方は、僕が一人浸っていた感傷を違和感として捉えていたらしかった。


「シン先輩」


 小声で呼びかけられる。

 立ち止まったシアは、僕ではなく暗闇の中をじっと見つめているようだった。


「どうかした?」

「静かですよね……」

「そうだな。僕らだけだから、余計に静かに感じるのかもしれないが」

「そうじゃなくて……。こんなに静かすぎるのはおかしいと思いませんか?」


 その問いかけに対して、もう一度耳を澄ましてみる。今度はもう何も聞こえなっていた。虫の声も鳥の声も風の音も、全てが消えてしまっていて、痛いくらい耳鳴りだけが鼓膜に響いていた。


「なんだか嫌な予感がするんです。これってもしかして」


 たぶんシアはその先をわざと濁したんだろう。密かに心の中で抱いていた予想が当たらなければいいのにと願うばかりだった。奇妙な街路に閉ざされた僕は、一度この沈黙の空間に立ち会ったことがあるからわかる。

 静寂の中で静止した世界。魔女狩りが使ったあの結界だ。あの神社の取り込まれた時と同じように、人や生き物が断絶された空間に二人は溶け込んでいた。

 口にした嫌な予感と言うやつは、徐々にはっきりとした現実味を帯びてきて、夜の外気の中から姿を現してくる。鼻を突く鉄の匂いと感覚を震わす鼻歌が接近していた。


「先輩、アレって……」

「おい、嘘だろ」


 僕たちの方にゆっくりと近づいてきたのは、何かを引きずっている男だった。黒のトレンチコートを着ているせいで見えづらく、街灯の下まで来てようやく全貌がわかった。服のあちらこちらに赤い斑点が付着していた。


「やあどうも。今宵はいい月じゃな。そう思わんかね」


 ゆったりとした渋い声が暗闇から先行する。

 白い手袋を付けた手で中折れのハットを取り、深々と頭を下げる。長身で筋骨隆々とした肉体、顔に傷のある男は美しく笑って見せた。かなり年を取っていそうで、男の一挙手一投足は長年の経験で身についた所作だと思わせた。穏やかに笑うその表情が全身に寒気を起こさせる。伝わってくる情報が僕の脳内で完結すると、本能に近い所で「こいつは魔女狩りだ」と確定させた。


「あんた、その右手の、何をしてんだ……」


 魔女狩りは無精髭を撫でながら何のことか考える仕草を見せる。


「ふむ。……ああ、これか」まるで手荷物を放り投げるかのように。

 どさぁっと音を立ててコンクリートの道路の上に投げ捨てた。どこから引きずられてきたのか、その正体は血に染まった魔女の子だった。セーラー服には焼け焦げたような跡がある。数か所ほど煤で灰色に染まったり、破れかけていたりする部分もあった。そして顔の方は、もはや元の造形がわからないほどに変形してしまっている。

 奥歯をぐっと噛みしめて堪えていると、足元からうめき声が聞こえた気がして、少女の唇が小さく動いたのが見えた。「たすけて」と、そう懸命に訴えかけていた。

 くすぶっていた胸の中の想いが僕の口から形になっていく。それは理不尽に対する怒りに近い感情だった。


「この人が何をしたって言うんだ。仮に、魔女の子だとして、こんなことをしてもいいと思っているのかよ!」

「ふはは、何を言うか。ただの引き回しじゃ。学生さんなら知っておるじゃろ? 中世の欧州も江戸も、似たようなことやっておった。犯罪者を市中引き回しにすることで、啓発運動の一環にした。今も昔も変わらんぞ」


 歴史というのは嫌な部分だけを繰り返していく。爺さんはそんなことを言った。

 もう無茶苦茶だ。引き回しの目的が啓発だというのなら、衆人環視のもとでやらなくては意味がない。それなのに夜の街で、しかも人払いまでしてやるなんて破綻している。


「人間が根幹で欲するのは安心じゃ。誰でもいいから悪を作って、すべてを押し付けることで、自分は正しい側にいると思いたい」

「何が言いたいんだ?」

「……たとえ話をしようか」


 災藤は指先を口許に持っていき、数秒間で思考をまとめる。

 ゆっくりと語られていった。


「ある高校に友達同士の生徒が通っていた。二人はとても仲が良く、どこへ行くのも一緒なほど、よく遊んでいたらしい。だが片方は、誰にも話せない秘密を抱えておった。

 自身が魔女の子だという爆弾は抱えるには大きすぎたのか、ある時どこからか噂が立ってしまった。最初は根も葉もない噂だった。じゃが、面白おかしく冗談として遊ぶには棘があり過ぎた。火のない所に煙は立たず。出回った噂は段々と真実を帯びていった。

 とうとう友人にも、その秘密を知られてしまった。魔女の子は関係が終わると悟ったらしい。だが友人は拒絶ではなく、心配の声をかけた。……とても優しい子じゃった。魔女の子という立場も関係なく、二人は仲良く出来ると話し合った。しかし、魔女の子が、クラスメイトが友人を唆している現場を見かけたことで、それは容易く崩壊した。

 密告されるかもしれぬと恐れ、その友を呼び出して学校の屋上から突き落とした。後から聞けば、友人は微塵もその気はなく、むしろ非難する立場にあったというのに。自らの保身で、殺人を犯した魔女の子。

 これが悪ではないと、お主は言い切れるか?」

「それはっ……」


 倒れている彼女がどんな性格で、何を思って、何をしたのか。それを理解し得ない僕には彼女を弁護するためだけの言葉は出てこなかった。

 無言のままでいる僕に、爺さんは嘆息した。そしてコートを脱ぎ捨てると、赤銅で汚れた白いカッターシャツと青のネクタイが表れた。


「申し遅れたが、仕事を始める前に先に名乗っておこうかの。名は災藤という。孫の命を奪った憎き魔女の子らを狩る仕事をしておる」


 悪役らしからぬ快活な笑い方をしながら再度敬礼をする傷の男に、冷や汗がぶわっと止まらなくなる。災藤はシャツの袖をまくり上げてネクタイを緩めた。腕やら手をグッと伸ばすと、災藤の身体からぽきぽきという音が鳴る。


「こんな歳でもワシは退役軍人でな。それなりに鍛えておる」

「なっ、待ってくれよ!」

「残念ながらただの人間に止める権限はない。すまんが、今日のワシは虫の居所が悪くてな。うっかり手を出してしまうかもしれんぞ」


 災藤は瀕死の少女に目線を下すと、両手を前へ構えながら言葉をゆっくり吐き出した。


「真実なる魔女よ今より血の契約に従い我にその力を貸し給へ。純血を喰らい贄を捧げ代償とせよ。罰を与え苦痛を持って汝が罪を浄化せん」


 吐いた呼気が黒い渦を伴って、紫煙が意思を持った生き物のように災藤の腕にまとわりついていく。黒と青に交互に混ざりながら揺れる炎が拳を包み込んだ。思い切り振りかぶって、地面に横たわる彼女の顔面に落とそうとした――。

 ダアァーンという鈍い音と共に、空気と地面が振動する。その衝撃が気圧を生んで、外側にいた僕の方へ一気に風が吹きつけてくる。立っていられずにその場に尻をついてしまう。

 何が起きたのかわからないまま、立ち込めた煙の中を凝らして見る。拳の先は、鋭い銀色の刃で止められていた。一メートルほどの長さで平らに広がった得物は、首切りの処刑に使われる刃を想像させる。その下で少女は気絶したのか、静かに倒れたままでいた。


「……ほほう。これはこれは」


 素早く軽いフットワークで四、五歩ほど後退してから、災藤は構えていた拳を下げた。だが警戒を解いたわけではなかった。開かれた目を細めて、シアに話の続きを持ち掛けた。


「もしかして、とは思っていたが。これは予想外じゃ」

「警告です。その人から今すぐに離れてください」


 腕の先にある断頭刃をまっすぐ災藤へ向けてシアは牽制を送る。それに対して災藤は、鼻を鳴らしてから人差し指で天を差す。ゆっくりと告げた。


「血の満月。能力の継承。この目で見るまで正直半信半疑だったが、はっきりとしたわい。 


 その言葉が重く耳に響いてくる。僕の前で月灯り照らされていた彼女は、後ろへ首だけ回す。目が合った。そこには暗闇で爛々と輝くほど、きれいで真っ赤な目があった。意思がこもった、まっすぐな瞳に惹き込まれる。

 しかし数秒でその目は正面を向いた。何も言えないまま、シアの小柄な背中を見つめるしかなくなる。すると背中越しに僕の名前を呼ばれた。


「ごめんなさい先輩。どうやら私が当たりを引いたみたいですね」

「待てよシア! これじゃあ本当に『荒廃の』――!」

「最後まで言わないでくださいよ。……先輩は巻き込まれる前に逃げてください。私がなんとかしますから」

「なんとかするって、その魔女狩りと戦うのかよっ⁉」

「戦って、その人も助けるんです。あくまで守るために戦うだけですから」


 シアはそう言うと大きな深呼吸をする。シアの身体が赤色で包まれるのと同時に、僕の左手が青色で包まれているのに気が付いた。彼女の紋章に触れた左手が、甲に刻まれた紋章が発光している。


「逃げるっつったって……」


 周囲を見渡す。真っ暗な暗闇の中で、一つの街灯だけが僕らを照らしている。


「魔女の子は魔女の子を助けるのが習性か? 同族で群れるのはお得意じゃの」

「魔女の子かどうかなんて関係ありません。傷ついている人がいるから、助けるんです!」


 気高く宣言するシアに、僕の心臓は締め付けられるような感覚を味わった。魔女の子だから、人間だから、そんな分類で人を見ていないんだこの子は。今ここで血を流して傷ついている人のために、彼女は行動できる。その純粋な強さに、僕は圧倒されていた。

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