第二十二話 違・和
「――ですか?」
「……」
「――大丈夫ですか? ぼうっとしていますけど」
「……え」
気づいた時には僕は別の場所に立っていた。止めていた息を一気に吐き出した時のように動悸が激しく脈打っている。全身の穴から汗を流している。荒々しく呼吸する僕の顔を隣から心配そうにシアが覗き込んでいた。
「大丈夫ですかシン先輩。とても顔色が悪く見えますけど……」
「あ、あれ」
黒一色だったはずの視界は、いつの間にか昼間の明るさを取り戻していた。天井に付けられた蛍光灯の光が痛いほど目に突き刺さる。乾いた眼球を潤すように瞬きを繰り返す。
「具合が悪いなら裏で休憩しましょう。無理は良くないですから」
「シア……」
「は、はい。どうかしましたか?」
「シア!」
無意識の内に名前を呼ぶと、戸惑った声ながらもちゃんと返って来た。
彼女が生きているっ! そう認識するや否や、僕の身体は衝動的に彼女の身体を抱きしめていた。ふわっとしたフローラルの香りに、柔らかくて熱を帯びた身体。さっきまで僕の身体を襲っていた、生命を吐き出してしまうような恐ろしい熱じゃない。生きている鼓動と熱だ。
ドクンドクンと脈打つ体が少し加速したように思える。ちゃんと脈も体温もある。大丈夫だ、ちゃんとシアは生きている。
「よかった。……本当によかった」
思わず安堵の声が漏れる。自分の声が鼻声になっていることに気づいた。体感以上に、本能へと恐怖が刻み込まれていたらしい。手の震えを認めても止めることが出来ない。
「ひゃぁ! あの、せ……先輩?」
悲鳴に近い裏返った声が耳を差す。やはりシアもこの状況に困惑しているのか。まだ冷静に考える余裕はない。ただ間違いないのは、あの魔女狩りに遭遇して殺されたということ。確かに僕は死んだ。彼女も……死んだはずだった。
「どこか痛む所あるのか? 怪我しているなら、すぐに手当てを」
「お、お気持ちは嬉しいんですけど。その、あの、人目があるので……」
「え、あれ」
目の前の彼女に気を取られ、周りが見えていなかったらしい。書籍を探していたお客さんが数人、何事かと驚いた様子で僕たちの方を見ている。奇怪な視線にいたたまれなくなり、ひとまずシアを腕の中から解放する。それで僕らへの興味も薄れたらしかった。視線を外して、なんでもない風を装っていた。
視線を左へ、右へ。現状を把握する。
自分が今どこに立っているのか。しかしそれはあまりにも信じられなかった。経年劣化で薄暗くなった蛍光灯。クリーム色の壁紙に、温い外気を運んでくる自動ドアの開閉。どこかで聞いたことのあるBGM。
僕とシアは、バイト先の書店の中にいた。
制服を着て働いていた数日前のあの時のように。
まだ困惑している僕の手を引いて、シアが奥の控室へ連れて行こうとする。僕は拒まずに、シアの行動に任せるままに従った。後ろ姿で表情は見えずとも、耳まで真っ赤に染まっているのがわかる。じっとそれを見ることしか出来なかった。
スタッフルームに入ると、休憩用のパイプ椅子が用意されていた。別のスタッフが使っていたのかもしれない。座部に指を差され、座るよう促されたので素直に着席する。彼女はロッカーと壁の隙間に立てかけてあったもう一つをはす向かいに並べるようにして座った。
「大丈夫ですかシン先輩。さっきは何か変な感じでしたけど」
最後まで言い切らずに僕の意図を推し量ろうとする。
「ごめん、抱きしめたのは悪かった! もうしないから許してくれ」
「い、いえ。それは別に怒ってないというか嬉しかったというか」
「え?」
「な、なんでもないです。気にしないでください! それよりも先輩のことです。ちょっと様子が変だったので……もう平気なんですか?」
「ちょっと」と口にする割には、剣呑があったのかやや目が細くなっている。
「ああ、いや大丈夫、かも」
何が大丈夫なのか、自分でもよくわからなかった。心臓は今もずっと激しく鳴り続けている。他人を抱きしめるなんて、らしくもない。昨日の僕が見たらきっと鼻で笑っていただろう。それくらい自分でも動揺しているのがわかる。
それにしても彼女はこの状況を不思議に思ってないのか? さっきまで二人とも神社にいたはずが、今はバイト先にいるというのに。それとも僕は変な夢でも見ていたっていうのか? 無言で考え続ける僕に対して、シアは神妙な面持ちで口を開いた。
「やっぱり紋章に触るのは良くなかったですかね。私のせいで悪い影響とか出ちゃって、先輩の体調が悪くなっちゃったんでしょうか」
「何の話をしているんだ。神社でどうなったのかの話じゃないのか」
「神社……ってシン先輩こそ何の話をしているんです?」
シアはきょとんとした顔を作る。わざととぼけている感じではない。こんな時に嘘をつくとも思えない。
なんだろうこの違和感は。手放してしまえばすぐにでも消えてしまいそうな違和感なのに、もう一人の僕がぎゅっと綱を握っている。放してはいけないと訴えている気がする。僕と彼女の間に何かズレがある。このズレはいったいなんなんだ。
いつかしたように、僕は違和感の正体を探ろうと疑問を口にした。
「さっきまで僕らは何をしていたんだっけ」
確かめるようにゆっくりと問う。
その答えも同じくゆっくりと返って来た。
「えっと、私が先輩の手を見せてくださいってお願いして、先輩が見せてくれました。それ見てから、先輩はぼうっと立ったままで……」
「それは今さっきのこと?」
「そうですよ」シアはこくりと頷く。
待ってくれ。紋章を見せたのは二日前の話だ。それがちょっと前だっていうのか。ぐるぐると頭の中で自分の知っている情報と不可解な情報が巡り、矛盾を起こして、眩暈と頭痛がじんわりと広がっていく。
「ごめん。少しだけ一人にしてくれないか」
左手で頭を押さえながら、喉の奥から込み上げる感覚がそんな言葉を吐き出させた。シアが戸惑いつつも「ちゃんと休んでください」と扉から出て行ってくれる。今は彼女の素直さが何よりもありがたかった。
背もたれに深く寄りかかる。知らずに溜め込んでいた疲労がどっと押し寄せて、目の奥にかっと熱が押し寄せてきた。指先でつまんで目頭を揉みほぐす。
「さっきまでのは全部夢だったってのか……?」
漠然とした困惑の色が僕の頭を塗り潰す。浮かんだ考えを言葉にして吐き出してみても、それが正解だとは到底思えなかった。自分は確かに死んだはずなのに――。
いったい何が起こっているのか。
太ももの辺りに何か違和感を覚え、ポケットに手を突っ込むとスマホが入っていた。電源を付けると、ブルーライトの明かりと共にデジタル表記で時間が出る。その下の数字を見て、思わず僕は自分の目を疑ってしまった。表示されていたのは二日前の日付。なぜか胸の辺りに鈍い痛みが走った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます