第二十一話 狩・猟
「逃げるぞ!」
シアの手をつかんで、後ろへと走りだそうとする。だが彼女の体は重くて動かなかった。逆に僕の方がビンッと引っ張り戻されてしまい、その拍子で体が反転する。僕の視線の先には、嫌なものがもう一つ待ち構えていた。
同じく黒いスーツを来た男。だが正面の金髪男とは違って、体がだらんとしていて、腰の辺りまで黒髪が伸びきっている。前髪も伸びていて顔が見えない。服装は大きく形を崩していて、今にも肩から落ちそうな感じがする。よれよれな青いネクタイもきっちりしまらない。
そんな怠惰さよりも僕の注意を引いたのは、右手から伸びるゆらゆらと蠢く刀身だった。一メートルは有に超えている。研いであるのか、遠目でもその光沢がわかる。
「なんだよ、あの刀は……」
「魔女の能力で創られた武器は魔女の血を欲するのです」
楽しそうに左右に揺れる男は、ぶつぶつと喋り始めた。
「真実なる魔女よ今より血の契約に従い我にその力を貸し給へ。純血を喰らい贄を捧げ代償とせよ。罰を与え苦痛を持って汝が罪を浄化せん」
揺れる刀に炎のようなオレンジ色の熱が纏い始め、その風圧で男の髪と服が激しくはためき始める。救済の執行を――。その声が耳に届いたかと思った瞬間、低音を置き去りにして、長髪の男は一気に僕らの眼先まで飛んできた。
シアを逃がさなきゃ。分かっているのに、恐怖で体が動かない。魔女狩りの動きがゆっくりと動いて見える。揺れる刃の先がシアに伸びていく。両側が木で囲まれた石畳の一本道。前と後ろを遮られては、逃げる場所はどこにもない。
僕に出来る最大限のことは――。
「きゃっ」
咄嗟の判断で、僕の腕にしがみついていたシアを突き飛ばした。バランスを崩して倒れこむ彼女を確認した次の瞬間、僕の視界が思いっきりぐちゃぐちゃに揺れた。
「けひひひ。守りますかね、その怪物を」
「がは――っ!」
酷く冷徹で、愉快さを孕んだ声が聞こえた。と同時に、長髪の魔女狩りが渾身の力で刀を振り切った衝撃によって、僕は後方へぶっ飛ばされた。うまく受け身も取れず、地面へと勢いよく転がる。全身打ちながら回る。
あ、あれ……何が起きたんだ。脳が揺れているみたいに、くらくらして気持ち悪い。唾だと思って飲み込んだ液体は、苦い鉄の味がした。それにしてもどうしてこんなに胸が熱くて痛いんだ?
「あーあーあーあー残念です残念です。非常に残念ですねぇ」
悔恨の感情は微塵も宿っていない声音だった。流れるような冷たい言葉に、耳が不快感を訴えてくる。
「けひひひ。俺の血壊は、傷つけた部分に焼却を付与するのですねぇ。魔女にはよく効くのですよねぇ」
「あ、熱っ……‼」
「痛そうですね苦しそうですね申し訳ないですねぇ。男の方を殺す命令はなかったのですがねぇ。けひひひ、まあどのみち関係者は消した方がいいですがねぇ」
「おい、待て。やるなら先に女の方からだと言っただろう。それに余計な死体を増やしてくれるな。目の前で死なれては、女の方にストレスを与えかねん。もしも魔女になったら我々だけでは処理出来なくなるぞ」
短い悲鳴とともに、近くで人の倒れる気配がした。
全身が熱を帯びていて鉛のように重い。砂利が皮膚に食い込んでいて、針が突き刺さったように痛みが広がっていく。その痛みでようやく、自分がうつぶせの状態で倒れていることに気が付いた。
起き上がろうにも手足に力が入らない。肘をついてなんとか顔を上げた所で、喉奥からこみあげてくる吐き気に逆らえずに、そのまま吐き出した。ごぽっと音が鳴り、血泡が口の端から流れ落ちていく。
揺れておぼろげになっている視界に、真紅に染まった地面が映る。
これ全部、僕の血なのかよ……。
「まだ意識はあるか、青年よ」
頭の上で沈んだ声が聞こえた。
息を必死に吸おうとしても、口の中で空気が回るだけで舌が乾いていくだけだ。荒くなる呼吸につれて視界も徐々に色を失っていく。今までに感じたことのないはずの感覚が、正確にこの状況を「最期」だと認識させる。
このまま僕が死んだらどうなる。シアは魔女狩りに殺されてしまうのか。彼女は、シアは無事なのか。そんなこと――。
「し、あ……」
「もう喋るな。苦しみながら死にたいのか」
頼む。彼女だけでもいい。
「出来れば穏和に済ませたかったのだがな。残念ながら我々も一枚岩ではない。単に団体ではなく、同じ考えを持った集団に過ぎない。あの男のように狩りに真価を見出す者もいると覚えておきたまえ。あくまで思想は自由なのだからな」
頼むから生きていてくれ。神様、どうかあの子だけは――。そう祈らずにはいられない。
「こちらホプキンス。魔女の子を一人回収した。現場に一つ死体があるから後の処置を頼む。……いや、魔女の方はいい。どうせ殺せば灰になるのだから」
そんな声がうっすら聞こえてくる。塗りつぶされた闇の中で、僕は震える左手をズボンのポケットに伸ばす。それが限界だった。沈むように目を伏せると、乾いた地面は涙をすすった。
あの青色の刺繍が頭に鮮明に浮かぶ。薄れゆく意識でも離さないようにと、ぎゅっと御守りを握りしめた。末端に残った指の触覚があの文字をゆっくりとなぞる。
そして、ぷつりと。
そんなノイズ音がして、何も聞こえなくなった。
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