第十七話 感・嘆

 シアと約束した土曜日。なんとなく嫌な夢を見て目が覚めた。

 はっきりと嫌だった感覚は覚えているのに、それを言語化せずにいるとものの数分で忘れてしまう。忘れてはいけない気がして、なんとなく思い起こそうとしてみる。

 生暖かい何かが全身に降りかかってきて、その何かを振り払えないまま倒れた。僕ではない誰かが傍にいて、何かを叫んでいる。もやがかかったように視界が暗く、気圧の変化で耳の詰まった間隔がする。列車でトンネルを通った時や飛行機に乗った時と似ている。

 だからうまく聞き取れなかった。

 まあ、夢なんて脳が整理する情報だとか聞くから、深く気にしても仕方ないか。面白そうな夢なら、無理にでも思い返してメモしておいたのに。そうしていつか小説に使おうと思っているネタ帳が増えていくばかりだ。まだぼんやりとする頭で目覚まし時計を見た。次の瞬間に一気に体が動く。


「まじか。嘘だろ……」


 短針はほとんど上を差していた。たっぷり五秒かけて事態を把握する。シアが指定してきた待ち合わせの時間は十一時半だ。あと二十分。マンションから駅まで全力で走っても十分はかかる。昨日の僕が多少荷物をまとめておいてくれたおかげで、顔を洗って着替えるだけで済んだ。この際、朝食なんてどうだっていい。

 後輩の女の子を一人、放置してのんびりしている時間なんてない。鞄を背負うと、すぐに家を飛び出した。息が詰まるほどの勢いで走り出す。

 すれ違う人の波を縫って進む。駅の構内は休日だからか、学生が多く行き交っていた。その彼らは友人や恋人、先輩後輩かもしれない。その中でも手をつないでいるカップルに目が向いてしまうのはどうしてなんだろう。いつもなら気にかけないはずなのに。

 待ち合わせ場所に選んだ時計台の下には、僕と同じような境遇の人が溢れかえっていた。その誰もが片割れの翼を見つけようときょろきょろと見渡し、あるいは自分の存在をアピールしようと背伸びをしている。すっかり上がってしまった息を整えながら僕も倣ってシアを探す。

 だが人込みの中では、背の低い彼女は簡単に見つからない。どこかですれ違ってしまったかもしれない。もっと早く来ればよかった。

 待ち人の姿を見つけようと振り返った拍子に、行き交う人の流れと体がぶつかってしまった。


「きゃっ」

「す、すいません……って、シアか」


 反射的に謝ったが、なぜか相手の方は驚いていた。落ち着きかけていた呼吸の代わりに、今度は脈が速くなる。群衆の数が増えるほどに募っていた不安は、彼女の何気ない一言で霧散していった。


「先輩を見つけて後ろから驚かそうかなって思ったら、急に振り向くから、逆にびっくりしちゃいました」


 驚きは嬉しさの表情に上書きされている。


「普通に声をかけてくれれば良かったのに」

「ちょっとしたサプライズです。えへへ」

「とにかく会えてよかった。遅刻したから、怒ってないか不安だったし」

「正直ちょっとだけ待ちました。でも今は嬉しいです」


 にこにこと笑い、後ろで手を組んで見せた。そのおかげで、しっかりとシアの服装が僕の視界の中心に入って来た。

 アプリコットのワンピースに、腰の辺りで結んだリボン。肩から下げたブラウンの鞄が色合いの雰囲気をきちっと締めていた。僕の視線に気づいたのか、何かをじっと待つようにシアは目を合わせて来た。これは言わないといけないやつか。端的に、率直に。


「似合ってるな、それ」

「ほんとですか⁉」

「うん、可愛いと思う。大人っぽい感じがするよ」


 本心からの言葉を伝えてみる。出会った時の高校の制服とバイト中の制服姿しか見ていないせいか、やけに新鮮に感じたのだ。おそらく時間をかけて出来上がった髪型、緩くウェーブのかかった髪を手櫛で整えながら、シアは「ありがとうございます」と言った。


「じゃあ行こうか」

「はい!」


 元気よくシアが頷く。行先はシアの思うまま。どこまでもついて行こうじゃないか。そうやって彼女の隣を歩くのも悪くないと思った。

「こっちです」と道案内してくれるシアが眼前を指さした途端、不意に振り返った。何かを気にしているのか、首をしきりに回して辺りを探している。


「どうした」

「あ、いえ……何か変な感覚がして。誰かに見られているような?」


 まったく意識していなかったことを言われて戸惑う。

 慌ててそれらしい視線がないか探してみる。

 バラバラにひしめく人垣の中、僕たちから十メートルほど離れた所に壁にもたれかかった状態で、しわの寄ったパーカーを深くかぶった人物を見つけた。黒い帽子に年齢不詳の男。垂れた前髪から覗く二つの瞳が、しっかりと僕らに向けられていた。何もするわけでもなく、ただじっと。一瞬も外すことなく、猛禽類のような鋭い視線を送り続けていた。

 整った顔立ちに見える。映画やドラマに出てきそうな西洋風のイケメンだ。それでも泥濘の絡みつくような視線には、何かおぞましい力が込められている気がした。


「先輩……?」


 不安そうな声にハッとする。とっさに僕の口から言葉が出た。


「たぶん気のせいだよ」


 わざわざ彼女を不安がらせる情報を伝える必要はない。そう判断して、自分でもわかるくらいのわざとらしい笑顔を作って見せた。


「そう……ですね。えへへ、早く行きましょうか!」

「おいっ、走ると危ないって!」


 シアに手を引かれて、人混みをすり抜けるように駆けだしていく。僕の不安だけが置き去りになる。あまり外見だけでどうこう言うべきじゃないのはわかっている。

 それでも。

 なんだか――嫌な眼の人だと、思ってしまった。

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