第十六話 誘・引

 肩がぶつかって、僅かな体温がやけにはっきりと感じられる。「もう少し寄ったらどう」という独り言が二回聞こえた所で、自分が倉橋の方に傘を傾けていたことに気づいた。車道に面する左肩が酷く濡れている。自分の上着が肌にびっしりと張り付いていた。


「ん」

「ちょっと待ちなさい」

「なんでしょうか。って痛い痛い! 僕の腕をつまむな、皮膚がちぎれるだろ!」

「神無月くんの方に傘を戻すと、今度はあたしが濡れるでしょ。それは絶対に許さないわ」

「いやだって仕方ないじゃん」

「あたしに風邪を引けと言いたいのかしら」

「誰もそこまで言ってないです……」

「もう少し考えれば何が正解かわかるでしょう。使えない男ね」


 口を開くたびに悪口が量産されていく。はいはいと軽く流して、倉橋の方に一歩寄った。身体をぐっと抱き寄せる勇気はないので、これで勘弁してほしい。そのまま僕らは歩き出した。

 冷えた身体を温めるように、接している部分から倉橋の体温が伝わってくる。あーもう、心臓がうるさくて仕方ないな。くそ、バレてるとしたらちょっと悔しい。

 隣でほうっと息を吐く気配がした。


「これは痴漢に入るのかしらね」

「入ってたまるか。というか冤罪だし無罪放免だ。裁判で戦うというなら僕は迷わず弁護士を付けるぞ」

「別にやり合おうって意思は微塵もないわ。ただもう少し神無月くんには大胆さがあってもいいものだけどね。男がチキンだと、女は苦労するのね。あなたの慎重な性格も考えものだわ」

「抱きしめれば罪に問われ、抱きしめなければチキンと罵られる。この場合、僕は何をしたら正解なんだよ」


 軽口をたたき合う。いつかの僕たちと変わらないやり取りだった。愉快そうに笑ってくれる倉橋のことはやっぱり好きで、それは変わらないのだろうと思う。まあ、相変わらず彼女が僕のことをどう思っているのかはわからないけど。

 そんな調子で十分ほど歩き続けて、ようやく倉橋家が見えてくる。茶色の屋根にクリーム色の外壁が映える一軒家。高校の時に何度か訪れた場所。あの時は敷地に入るだけで浮ついた心持になったのに、こうして見ると何でもない普通の家だ。

 家の前に植えてある花壇には、ラベンダーの紫が小さく濡れていた。車庫になっている屋根の下に入ると、倉橋も合わせて立ち止まってくれた。すっかり重くなってしまった傘を閉じると、その場に水たまりができる。そこから排水溝へと一本の筋が出来た。


ここまで送ってくれてありがとう。送り狼はここで退散しなさい」

「はいはい、ってそのネタまだ引きずるのかよ。流石にひどくないか」

「それもそうね……」


 僕から視線を外して、倉橋は前髪を手櫛で梳く仕草をする。無意識のうちに見惚れていると、「じゃあ」という声が聞こえて我に返った。


「道中のお詫びも兼ねて、傘を貸すことにするわ。ただし次会う時にはちゃんと返しなさい。泥棒は許さないわ」

「僕にそんな度胸はない。それにまた会うから大丈夫だ」

「そう」


 薄く微笑むのがわかった。雨にも負けないくらい可憐で柔和な花が咲いた気がした。


「ちょっとだけ待っていなさい」

「あ、おい」


 倉橋が僕に傘を押し付けるようにして、家の中へと入っていく。僕の呼び止める声も無視して走っていく。何か急用でも思い出したのか。降り注ぐ雨空を眺めていると、玄関から頬の上気した倉橋が戻って来た。荷物の代わりにハンドタオルを持っている。少し乱れた息をごまかす様にして、胸に手を当てて落ち着かせていた。


「これは、頑張った神無月くんへのお礼よ」と言って渡してくる。

「お父さんが在宅の仕事中じゃなければ、神無月くんを部屋に上げても良かったのだけど」

 言葉尻が小さくなる。だけどそれは雨の中でも聞こえた。聞こえてしまった。髪を撫でている右手は所在なさげに置かれているだけで深い意味はない気がした。

 それって……どういう意味なんだよ。言葉の裏に隠された倉橋の意図を確かめたくて、何か言おうとする。でも実際に出たのは吐息だけで、くすぶった想いは形にならなかった。その代わりに言葉の先を拾ったのは、倉橋だった。


「日曜日、予定を空けておきなさい」

「……え」

「日曜日はバイトが入っていないはずでしょう。なら、あたしのために一日予定を空けておきなさい。どうせ暇なんでしょう」

「決めつけないでくれよ」

「じゃあ神無月くんには何か予定はあるのかしら」

「……ない、ですけどね!」

「じゃあ決まりね。詳細はまた連絡するわ。楽しみにしてなさい」


 あまりに一方的すぎる約束についていけないまま、倉橋の紅を差した口許に注目する。鉄筋の車庫に振り続ける雨で、それなりにうるさかったはずなのに、彼女の言葉はやけにはっきりと耳に残った。


「あたしと、デートをするの」


 さっき見た笑顔よりも、ほんの少し明るさを散りばめた表情。それがやけに鮮明に焼き付いたせいで、帰り道の間ずっと僕の頭から離れることはなかった。

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