第十五話 刺・激
店の裏口で、雨が降るのをずっと眺めていた。
しとどに振り続けていた雨は小降りへと変わっていく。歩道の方で、小学生の三、四人くらいが、傘に隠れてキャーキャーと叫びながら走りすぎていくのが見えた。
屋根の下から手を伸ばしてみる。手のひらにポツポツと粒が当たる。この降り具合なら自転車でも帰れるだろう。そう思ったが、さすがに倉橋との約束を無視して突破する勇気はなかった。
結局のところ僕はバイトが終わるまで倉橋を待つことにした。与えられていた二択も、つまる所は二人の時間を取るための、彼女なりの算段だったのかもしれない。先に持っておくようにと、渡された黒い傘を宙に差す。バッと音を立てて中の骨組みが顔を出した。
帰り支度を終えて、僕の横に小走りで寄って来た倉橋の表情を見て、確信に近い何かを感じた。帰ろうとは一言も発さなくても、二人が同時に足を進める。僕の開いた傘の中に、自然な動きで倉橋がすっと入ってくる。
「神無月くんとまた、一緒に帰れる日が来るとは思わなかったわ」
「そりゃ僕だってな。そもそも倉橋と……夜風と歩くなんて高校の時に数えるほどあったかどうかだ。大して家も近いわけでもなかったし」
途中で眉尻が下がったのがはっきり分かって、慌てて名前を呼び直した。
たまたま同じ地元の大学に進むことがわかり、たまたま僕の借りたマンションが倉橋の家と近くなった。不思議な偶然だ。……いや、偶然か?
付き合っていた頃は距離が酷く近づいた記憶なんてないのに、別れた今になって、二人して同じ傘の下で身を寄せているなんて。皮肉っぽくて笑いそうになる。
「そういや、お母さんは元気なのか?」
「まだ入院中。お医者さんは徐々に回復に近づいているって言うけど。正直まだわからないわね」
「そっか」
「お父さんも頑張って会いに行くけど、ほとんど会話にならないって。あの人、まだ宗教の本を読んでいるらしいから」
「無理やり取り上げても逆効果って聞くからな」
「今のあの人の精神を安定させる唯一の手段だから。薬と変わりないわね」
倉橋の母親に何があったのか。それを僕は知らない。ただ何か起きたのだ、ということを倉橋からそれとなく伝えられた。だからそれ以上過去に踏み込むことも出来ないし、しようとも思わなかった。
自分の実の母についてのことなのに、淡々とした物言いで語る。たぶんそれはもう、お母さんが家に戻ってくることを諦めているから。気づいているからだ。
住宅地が並ぶ歩道を進む。水たまりを踏むたびに、靴下を侵食する不快感が募っていく。傍を時折数台の車が通っていくだけで、僕らの他には通行人はいなかった。
「そういえばさ」
「急になにかしら。送り狼ならまだ早いわよ」
「そんなことは考えてない。そうじゃなくて、バイトの時に何の小説を読んでたんだろうって。ほら、資料の下に隠してたやつ」
「……」
「なぜ黙る」
「……どうしてそのことを知っているのかしら」
「いや、普通に見えてたから……っておい!」
横から突然白い指が眼前に飛んでくる。反射的に体をのけぞらせたが、躱していなかったら確実に僕の目を突いている所だった。
「知ってしまったからには生かしておかないわ。このまま車道に突き飛ばすわよ」
「本一冊バレただけで、それは怖えって」
「冗談よ」
全然冗談には聞こえないトーンだった。
「神無月くんにちょっとした刺激をプレゼントしてみたの。少しはドキドキしたんじゃないかしら?」
「それは正反対で違う意味のドキドキだ」
黒い傘に重みが溜まっていく。雨粒が骨組みに当たるたびに、軽い衝撃が腕に伝ってくる。段々と勢いが強まってきているのか、僕らの間にはザーザーという無機質な音が流れるばかり。その閉塞感から互いに口を閉ざしてしまう。
少し経ってから、倉橋が「魔女の子のお話よ」とポツリと呟いた。
「人間と魔女の子の作品よ。読んでないのかしら。本の虫を名乗っておいて情けないわね」
「あれだろ、十万部ヒットしたやつ。もちろん知っているさ。あと、本の虫は別に自称するもんじゃないからな」
「そうね。あたしが勝手に、好きな人をそう呼んでいるだけだもの」
したり顔で笑う倉橋にうまく返せず、もどかしくなる。浮かんだのは本の内容を聞く事だった。すらすらと噛むことなく、倉橋は教えてくれた。
「普通の人間の男の子が魔女の血を引く女の子と恋愛をするんだけど、周りの人から止められるお話。あいつは魔女の子だからやめとけってね。関係を持つことに反対されても、主人公は押し切って駆け落ちするの」
「どこかで聞いた話だな」
「作り話とは思えないくらいにリアルよね」
まったく、耳が痛くなるほど現実的なお話だ。似たような男女がいたことを知っている。だがそいつは何もしないまま逃げてしまった。主人公なんて言葉がふさわしくないくらいに。
「読んでいて、あたしはとても心が痛くなったわ。二人は本気で悩んで、本気でぶつかって、それでも思うようにいかなくて、周りの目が悔しくて……。そんな時に傍で支えてくれる人がいた。彼らは決して、最後まで手を離すことは無かった」
「フィクションの世界だから、な……」
「さっき、知っていると言ったわよね。本当に読んだのかしら」
棘の含んだ言い方が胸にちくりと刺さる。彼女にしては随分と遠回りをした表現だった。その優しさが逆に痛いほどに感じる。だからこそ、僕は逆に直球で返したくなった。
「もしかして僕の事を言いたいのか」
「あなたは逃げたでしょ」
「ごめん」
その先が言えなくなる。謝罪をしてどうなるというのか。倉橋と付き合って僕まで差別されてしまうのが怖くて、震えていた手を振り払った。その結果、僕は倉橋を傷つけた。倉橋と共に進む選択肢は確かにあったはずなのに、それでも僕はそのレールから外れることを望んでしまった。今でも罪悪感だけが心の隅に残っていて、それを解消するために僕は――。
「さて、どうかしらね。別れていても、神無月くんのことを好きなままでいるあたしは、異常なのかしら。たまに考えるのよ。付き合ったままでいたら、何か変わっていたのか。それとも変わらずに、今もそのままなのか。どう思う?」
「別れたのは僕のわがままだ。それで君がおかしいなら、僕はもっと異常者になる」
「この国では魔女の子たちは、生まれながらにして枷を背負っているわ。『正しくない』『普通とは違う』という根拠のない価値観を押し付けられた異端者よ」
「全員が敵ってわけじゃないだろ。保護する団体だって――」
「じゃあどうして大人に成長した魔女の子が少ないのよ? ほとんどが子供のうちに殺されたからじゃない!」
冷静だった倉橋の語気が荒々しくなる。倉橋の手は左肩を抱いていた。その仕草をまともには見ていられなかった。
「この十年で魔女の子たちは金稼ぎの対象になった。年齢が上がるほどレートも上がる。それは、子供の方が楽に、殺しやすいから……」
「もうこの話はやめないかッ!」
「学ぼうとすらしない怠惰は、無知よりも敵と同じよ」
呼吸の音がいつの間にか激しくなっていて、落ち着けるために僕は一度立ち止まった。僕らの視線は交わらなかった。
「人間と魔女の子だって、普通に生まれて成長して恋愛できたはずなのに」
「恋愛はつくづく難しいと思うわ。もっと簡単に出来ればいいのにね」
「僕も、同感だ……」
付き合ったままでは見えなかった景色もあれば、別れてからこそ出来ることもある。どちらが正解だとは口に出来なかった。そこに善と悪はないはずなのに、どっちを選択しても後悔するのはどうしてなんだろうか。ぼんやりと考えてしまった。
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