第十四話 合・傘

 カウンターに寄りかかっていたせいか、姿勢がつらい。体勢を直すと胃がぐるぐると動いているのがわかった。そういえば、昼ご飯をまだ食べていなかったか。手早く小説を見繕ってから帰ろう。昼食代も考えて買わないといけない。財布にどれだけあったっけ。

 ひとまず文芸コーナーに向かおうとした瞬間、背中から倉橋に呼び止められた。


「神無月くんは」

「ん?」

「神無月くんは、今日どうしてお店に来たのかしら」


 倉橋の方から会話を持ちかけたというのに、また本に目を落としたままだった。さらりとした前髪が彼女の双眸を隠している。


「別に、暇つぶしというか。文庫本でも買おうかと思っただけだ」

「相変わらず本の虫ね。小説にしか興味がないのは褒めるべきポイントかしら。それとも罵倒するべきポイントかしら」

「罵倒はするな。夜風だって対して変わらないだろ、僕と」

「それは……貴方のせいよ。神無月くんが本ばかり勧めてくるから、あたしも読むようになったんだもの。それ以前は、読書なんてさほど興味なかった」

「そうだっけ。元々読んでいたイメージあるんだけど。ほら、同じ図書委員だったじゃん」


 高校三年の時の話だ。確か僕たちは委員会で縁を持った気がする。すると、倉橋は本を閉じて顔を上げた。懐古しているのか、やや左上の方に視線をやった後で、ふっと口許を緩ませてから答えた。


「あら。それはボッチで可哀そうな神無月くんに同情して入ってあげたのよ。誰もあなたと一緒にやりたくないっていうのは、なかなか滑稽だったんじゃないかしら」

「僕は悪くない、僕は悪くないぞ……」


 僕一人でも仕事は出来たんだが、なにせ二人組で所属しないといけないという決まりだった。そのせいで、もう一人決まるまで全員が待たされていた記憶がある。そのいたたまれなさは尋常じゃなかった。役職が決まらないのが僕のせいにされるのは、絶対におかしいだろ。


「あれ以上時間を使うのはもったいないから、あたしが仕方なく入っただけ」

「そうかよ。それは感謝しないとな」

「単なる仕事関係だったはずなのに、それで収まらず、神無月くんはどんどん本を勧めてきたわよね。あれ読んだかこれ読んだかと書棚を駆け回っていたのは、鬱陶しいことこの上なかった」

「そ、それは謝罪しないとな……」

「中には面白い小説もあったのだから、全く悪いわけではなかったわ」


 常に多弁というわけではないが、趣味や好きな話題に限っては口数が多くなる。でも仕方のない事だろう、自分が勧めた小説を読んでくれて、それで感想も言ってくれるなんて。つい舞い上がってしまっても責められないのではないか。……そんなこともないか。

 懐かしい記憶は、水で濡れた鏡に写っている感覚がした。


「共通の趣味が出来たと思えば万々歳ね。今更後悔はないわよ」


 今思えば、興味がないなりに接してくれていたのだろう。誰かの影響で何かを始めると聞けばいいことのようだが、それが長続きしたのは紛れもなく彼女の努力に違いない。「後悔はない」と言う彼女の表情はどこか満足感のあるような、嬉しそうな気がした。その顔を見ていると、なんだか自分がらしくないことを言ってしまいそうな気がしたので、あえてぶっきらぼうな言い方をした。


「それで。呼び止めたのは何か用だったか」

「単に本を買って帰るだけなのか、と思っただけよ」

「他に書店で何かすることないだろ。シフトが入っているわけでもないし、プライベートも費やすほどの仕事人間じゃないし。だから外で昼食を済ませて、軽くサイクリングでもしようかと――」

「ずぶ濡れで?」

「……え?」

「せっかく買った本も濡れてしまうような、この土砂降りの中を、自転車で走るというのかしら」


 倉橋は窓の方を指さす。そこには着いた時とはまるで別世界かと思う程、暗雲と豪雨がびっしりと並んでいた。風も吹いているのか、時々叩きつけるように雨がガラス窓に衝突する。ヒューヒューと吹き、コツコツと鳴る。まるで一つの生き物のように唸っていた。


「マジかよ。帰れないじゃん」

「この荒れやすい時期に天気予報を確認していないなんて馬鹿としか思えないけれど。もしかして神無月くん、あなた馬鹿なの?」

「に、二回も言わなくてもいいじゃないっすか……」


 学校を出発した時は曇っていたから、ギリギリ晴れてくれると思っていたのだが、やはりだめだったか。さっと本を買って帰っていればまだ間に合ったかもしれないが……まあ「もしも」の話を考えても仕方ない。

 あの時何かをしていれば、なんていうのは全て結果論だ。過去の自分を責めても、そいつが代わりに助けてくれるわけじゃない。

 どうするべきかと悩んでいると、倉橋はなぜか上ずった声で会話を続けた。


「も、もしもの話だけれど。神無月くんがよければの話だけど」

「なに」

「傘を、貸してあげてもいいわ」

「え、マジで? 助かる!」


 予想外の言葉に自分でも気づかぬうちに驚いた声が出た。


「ただあたしのシフトが終わるまで待って頂戴。あと十五分ほどよ」

「なんで」

「一緒に帰るからに決まっているでしょう。それとも、あたしだけ濡れて帰れとでも言うのかしら」


 口を開けたまま固まる。当然の主張だった。普通の人は傘を二本持ち歩いているわけがない。というか、一緒に帰るということは相合傘になるのでは……。嫌じゃないんだけど、少しためらってしまう。雨が止むまで待つ選択肢だってあるが、それは空腹のままこのお店に閉じ込められるということだ。

 傘を借りるだけだったはずなのに、僕の思考は色々と余計なことを考え出してしまった。黒い視線だけがゆっくりと交差していく。大きく見開かれた瞳が僕を捉える。漆黒の丸いガラスはまるで、退路はないぞと通告しているようだった。やがて倉橋の白細い指が僕にビシッと突きつけられた。


「濡れて風邪をひくか、あたしを待ちなさい。その二択しか与えないわ」

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